中里宿(読み)なかさとしゆく

日本歴史地名大系 「中里宿」の解説

中里宿
なかさとしゆく

[現在地名]野田市中里

中里村に置かれた日光東往還の継立場。宿成立の時期は未詳であるが、享保一三年(一七二八)の将軍徳川吉宗の日光社参では中里村幕府領方名主七郎左衛門が同村旗本領名主ら三名とともに問屋役をするよう命じられている。七郎左衛門は居屋敷が宿の中ほどにあるので自分の敷地内に問屋場を置こうとしたところ、ほかの三名も問屋場を設け、また三名が通行大名から渡された祝儀金などを自分に隠していたなどとして訴訟に及んでいる(染谷家文書)。文政一〇年(一八二七)には当宿から道法三里の関宿せきやど(現関宿町)まで人足六三文・本馬一三〇文・軽尻八二文、同じく二里一一町の山崎やまざき宿までは人足四五文・軽尻六〇文であった(「駄賃覚」岩井市史料集)

中里宿
なかざとしゆく

[現在地名]佐世保市中里町

江戸時代、平戸往還に置かれた宿駅。佐世保方面と佐々さざ(現佐々町)方面、また賤津しつつ浦にも通じる要所であった。文化九年(一八一二)一二月二八日、伊能忠敬の測量隊一行がこの付近を測量、「伊能忠敬測量日記」に「本村字中里、平戸街道、賤津浦道追分(中略)昼休領主茶屋、番人篠崎茂吉」と記される。天保九年(一八三八)平戸藩役人溝上瀬助は藩主随行、「早岐江七月十二日御宿、同十三日中里御泊り、同十四日江迎御泊り(中略)日野浦御昼九ツ時帰城」と記している(「御厩飼料方覚書」溝上家文書)。嘉永三年(一八五〇)九月平戸に向かう吉田松陰は佐世保浦から二里の中里を経て四里の江迎えむかえ(現江迎町)に向かっている(西遊日記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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