中道村(読み)なかみちむら

日本歴史地名大系 「中道村」の解説

中道村
なかみちむら

[現在地名]佐伯町中道

飯山いいのやま村の南に位置し、西は周防国玖珂くが(現山口県玖珂郡)に接する。南西には羅漢らかん山があり、集落木野この川上流域の谷あいに散在する。

慶長六年(一六〇一)検地では畝数一八町七反余で高一一四石余(国郡志下調書出帳)。広島藩領で、元和六年(一六二〇)家老上田家の給知となっている(「上田家知行目録」上田家文書)。「国郡志下調書出帳」に「慶長六年御検地之節ハ百姓多数有之、端々谷々迄御田地ニテ御草請仕候処、(中略)其後追々村方少ニ相成、猪鹿の防キ手も届兼荒地相成、其外洪水度々ニテ、(中略)荒所起方難相成、右慶長年中トハ大ニ異り申候」とある。

中道村
なかみちむら

[現在地名]東成区中道三―四丁目・東小橋ひがしおばせ一丁目・玉津たまつ一丁目、東区玉造たまつくり一丁目、天王寺区玉造元たまつくりもと

東は平野川を境に本庄ほんじよう村と、西は大坂三郷の玉造各町(現東区)および玉造村(現天王寺区)と接する。地形は平坦で、西部を猫間ねこま川が北流し、中央部を東西方向に奈良街道(暗峠越)が通じる。猫間川西岸の字唐居殿からいでんは、古代に朝鮮半島や中国から来た諸使節の饗応・宿泊施設であった鴻臚こうろ館の前身とみられる「三韓さんかん館」の跡地とする説(摂津名所図会)があるが、確定できない(東区の→鴻臚館跡

中道村
なかみちむら

[現在地名]茅野市泉野いずみの 中道

大泉おおいずみ(一一一五メートル)の南東方にあり、西は山田新田やまだしんでん村、北は小屋場こやば村、南は柳沢やなぎさわ村に隣接する。「諏訪郡諸村旧蹟年代記」には「中道新田 草分伊藤市兵衛 慶安元年 元中沢村之新田、今は親村之出入無之草分市兵衛免許二石内一石名主免被下拾五人え壱石ツヽ拾五石被下寛文十三年三月五日廿八日火を焚始メ候故毎年定日にて産神祭礼也」とある。

中道村
なかみちむら

[現在地名]三雲村中道

あお川と三渡みわたり川に挟まれた下流の低地に位置し、中林なかばやし村の南にあたる。村内を伊勢参宮街道が通る。小字名に蔵垣内・野垣内の垣内地名、古新田・浜新田の新田地名がある。

文禄検地帳を転記したものと思われる伊勢国中御検地高帳に中道とみえ、石高七三一・六七石とある。元和五年(一六一九)和歌山藩白子領となり、小船江組に属した。慶安郷帳(明大刑博蔵)には田六〇九・九〇九石、畑一二一・七〇一石とあり、新田・旱損所・塩入所があった。

中道村
なかどうむら

[現在地名]橋本市中道

紀ノ川左岸の河岸段丘にあり、西は下上田しもうえだ村。地名は付近にあった堂から起こったといい(続風土記)、地元ではナカンドという。中世隅田すだ庄に属した。慶長検地高目録には村高二九四石余、小物成二斗六升一合とあり、「続風土記」によれば当村は慶安三年(一六五〇)和歌山藩より高野山領に編入され、村高三〇〇石のうち五・三〇七石は下上田村にあり、一〇〇石が高野山興山こうざん寺東照宮領、二〇〇石が同大徳だいとく院東照宮・御霊屋領であった。

中道村
なかみちむら

[現在地名]大野町後田うしろだ 中道

萩田尾はぎたお村の北東王子おうじ山北西麓にあり、広戸ひろと川が北東へ流れる。正保郷帳に村名がみえ、田高二七石余・畑高一八石余、井田いだ郷に属する。旧高旧領取調帳では高一二三石余。安永七年(一七七八)には片島組に属した(大庄屋・小庄屋・横目一覧「農民一揆」所収)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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