中川原村(読み)なかがわらむら

日本歴史地名大系 「中川原村」の解説

中川原村
なかがわらむら

[現在地名]洲本市中川原町中川原

市原いちばら村の東にあり、津名つな郡に属する。南は三木田みきた村。正保国絵図に村名がみえ、高四二五石余。天保郷帳では高五五九石余。安乎組に属した。弘化四年(一八四七)書写の文化二年(一八〇五)の棟附人数改帳(中川原村史)によれば家数九〇・人数四二五、馬二九・牛四八。反別戸数取調書によれば反別四九町六反余、高七三六石余ですべて蔵入地。家数八一・人数五〇六。庄屋神代氏は通常安乎中田あいがなかた村の庄屋を兼帯し、安乎組の組頭庄屋を勤めていた(天保五年「両郡村浦庄屋名面帳」高田家文書)三原みはら下内膳しもないぜん村より北上する福良ふくら街道と洲本府の宇山うやま口より北上して根頃ねごろ峠を越える岩屋いわや街道が当村内で合流、洲本府から岩屋(現淡路町)へ向かう最初の町送り場となっていた。

中川原村
なかがわらむら

[現在地名]滑川市中川原

早月はやつき川が形成した新扇状地の扇端部に位置する。北陸街道が通り、西は滑川町、北は富山湾に臨む。「越後下向日記」によると、延徳三年(一四九一)三月一四日に冷泉為広が「ナカ川里」を通過しているが、道中前後の滑川と坪川つぼかわとの位置関係からこれは当地のことと考えられる。寛文一〇年(一六七〇)の村御印に中河原村とみえ、草高七七石、免三ツ六歩、小物成は鮎川役一匁(出来)であった(三箇国高物成帳)。所属組は平塚ひらつか村と同じ。享保一八年(一七三三)の新川郡村廻帳(川合家文書)には同九年の新開高として一〇石余の「木呂川開」の記載があり、村肝煎は三郎左衛門、家数八は百姓で、「内三軒入百姓滑川町頭振ニ而無家、但掛作高ニ而ハ無之候」と注記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報