中宿町(読み)なかじゆくちよう

日本歴史地名大系 「中宿町」の解説

中宿町
なかじゆくちよう

[現在地名]小田原ほん町一丁目・同四丁目

本町の西、欄干橋らんかんばし町の東、東海道沿いの通町。貞享二年(一六八五)の御引渡記録(県史四)町名がみえ、小田原町明細書上(県史九)によれば魚座役一があった。上の問屋場があり、高梨たかなし町の下の問屋場と一〇日交替で勤めた(風土記稿)。上の問屋場は、享和年間(一八〇一―〇四)の東海道分間延絵図では東海道の北側にあったが、嘉永図(小田原城天守閣蔵)では南側にみえる。御用商人小西家は問屋・町年寄を勤め、藩主大久保氏に冥加金を上納し(「小西家譜」小西文書)、また天保元年(一八三〇)没の質商大坂屋甚兵衛は紀軽人と称する狂歌師として江戸・小田原で知られ、蜀山人らと交際があった(藤井文書)

中宿町
なかじゆくまち

[現在地名]清水市興津中町おきつなかちよう

興津宿の東、興津川右岸に位置し、南は海に面する。東海道が通り、往還沿いの町場は興津宿から続き、徒歩渡りの興津川の川会所も置かれていた。地内に中町・西町・東町がある。寛永九年(一六三二)の徳川忠長改易後は幕府領となり、同領で幕末に至る(国立史料館本元禄郷帳・「寛政重修諸家譜」・旧高旧領取調帳など)元禄郷帳では高五一七石余、天保郷帳では高五三三石余、旧高旧領取調帳では高五六二石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報