中吉田村(読み)なかよしだむら

日本歴史地名大系 「中吉田村」の解説

中吉田村
なかよしだむら

[現在地名]益田市中吉田町・あけぼの本町ほんまち・あけぼの西町にしまち

高津川と益田川に挟まれた三角洲の大部分を占める。東は下本郷しもほんごう村、南は上吉田村、西は中之島なかのしま村、北は久城くしろ村と接する。もと吉田村のうちで、宝永石見国郷村帳に吉田村枝郷とあり、高五三四石余。寛政六年(一七九四)の村書上帳では庄屋給米は高六〇五石のうち一五・一俵分(益田町史)。江戸中期に吉田原の藍が栽培額を拡張したため、天保一二年(一八四一)浜田藩は藍座を設けた。益田村の宗味そうみ市は益田一円の農漁村の経済を豊かにしたが、益田の河港今市いまいちが市場としての使命を失うと、中吉田村に進出した市場が取って替わった。この市は波田氏が庄屋寺井家とともに尽力したものであった(「波田由緒記」菅原家文書)

中吉田村
なかよしだむら

[現在地名]平鹿町中吉田

東は東石塚ひがしいしづか村・上吉田村・深間内ふかまうち村、西は浅舞あさまい村を隔てて西石塚にしいしづか(現雄物川町)、北は下吉田村・七日市なぬかいち村、南は浅舞村と接する。

もと、上吉田村・中吉田村・下吉田村は一村であったが、元和二年(一六一六)三村に分れた(雪の出羽路)

享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」に総称とあり、枝郷として藤根ふじね村・柳餅やなぎもち村・西小路にしこうじ村・福田ふくだ村・なか村・下藤根しもふじね村がある。

中吉田村
なかよしだむら

[現在地名]酒田市保岡やすおか

北吉田村の南にある。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録では高二九一石余と一石余で計二九三石余。寛永元年庄内高辻帳の高は三三二石余。寛文九年(一六六九)検地帳(中吉田区有文書)によると二七四石余、田方一九町九反余・畑方一町四反余。名請人一九人、うち屋敷持は一一人。貞享四年(一六八七)草刈地の鷹尾たかお山山札を一五枚所有し、米三斗を納入(「鷹尾山新古留帳」相馬文書)。享和三年(一八〇三)の家数一九・人数九九(「村数家数人高控帳」斎藤文書)

中吉田村
なかよしだむら

[現在地名]静岡市中吉田・弥生町やよいちよう国吉田くによしだ二丁目

有度山うどさん丘陵北西麓、ともえ川右岸沿いに位置し、西は国吉田村南端東海道が通る。慶長一四年(一六〇九)一二月の彦坂光正駿府浅間社領所付写(旧新宮神主文書)に「吉田中之郷」は高一四一石余とあるが、これは当村と東の中之郷なかのごう村のことであろうか。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

排外主義

外国人や外国の思想・文物・生活様式などを嫌ってしりぞけようとする考え方や立場。[類語]排他的・閉鎖的・人種主義・レイシズム・自己中・排斥・不寛容・村八分・擯斥ひんせき・疎外・爪弾き・指弾・排撃・仲間外...

排外主義の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android