中台経済交流(読み)ちゅうたいけいざいこうりゅう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「中台経済交流」の意味・わかりやすい解説

中台経済交流
ちゅうたいけいざいこうりゅう

中国と台湾の間の経済的な交流。具体的には、おもに両者の間の貿易および投資を意味する。中国と台湾は第二次世界大戦後、長く敵対関係にあり、両者の間のあらゆる交流が閉ざされていたが、1980年代後半から経済面での交流が急速に活発化した。中台経済交流は、西太平洋における経済発展ダイナミズムの重要な要素として注目を浴びるとともに、中台間の政治的な関係に与える影響が国際的な関心を集めている。

[佐藤幸人]

過去――政治に先行した経済交流

今日、台湾と中国の間では、経済的な往来が活発に行われている。それは1985年のプラザ合意以降に進行した東アジア経済の大変動の一環として始まった。そもそも第二次世界大戦後、長く敵対関係にあった台湾と中国の間には経済交流はなかった。しかし、1970年代末以降、中国は改革開放路線に転じるとともに、対台湾政策を武力解放から平和統一に転換した。その一環として、1981年に全人代常務委員長、葉剣英(ようけんえい/イエチエンイン)が「三通」(通郵・通商・通航)を含む9項目の提案を台湾によびかけたが、台湾を治める国民党政権は「三不政策」(接触せず・交渉せず・妥協せず)を掲げて応じなかった。

 だが、1985年のG5(先進5か国財務相・中央銀行総裁会議。1986年からG7)によるプラザ合意後、状況は大きく変わった。急激な円高の後を追って、台湾の通貨である元の対米ドル・レートも大幅に切り上げられた。この結果、賃金水準の継続的な上昇とあいまって、それまで台湾経済を支えていた労働集約型の輸出産業は競争力を失い、廃業か、海外への移転かを迫られることになった。そのとき、有望な移転先の一つとして、中国が注目されるようになった。

 しかし、「三不政策」がある以上、台湾から中国への直接投資は違法である。ところが、この時期に行われた二つの規制緩和によって、「三不政策」は形骸化されることになったのである。

 第一に、台湾政府は経常収支の黒字の累増によるインフレ圧力を緩めるために、1987年7月に外貨の持ち出し規制を大幅に緩和し、1人500万米ドルまで持ち出しを認めた。第二に、同年11月、中国への渡航規制を事実上、解禁した。この二つの措置の結果、ヒトとカネの移動が自由になったため、とくに中小企業について、台湾政府が対中国投資をコントロールすることはほとんど不可能になってしまった。

 実際、1987年以降、非合法にもかかわらず、台湾から中国への直接投資が盛んに行われるようになった。1989年の天安門事件後、先進諸国からの投資が鈍化するなかでも、台湾からの投資は増大を続けた。さらに、1992年の鄧小平(とうしょうへい/トンシヤオピン)の南方視察後には、一段と拍車がかかった。これは、それまで投資の中心だった労働集約型輸出産業に加えて、中国市場を目的とした投資が大幅に増加したためである。1997年以降、やや鈍ってきてはいるものの、多くの直接投資が引き続き台湾から大陸に対して行われている。

 台湾の政府はこのような投資の実態を把握するには、政策の枠組みの再編をせざるをえなくなった。また、同時期の政治面の変化も対大陸政策の再編を促した。1988年に逝去した蒋経国(しょうけいこく/チヤンチンクオ)総統のあとを襲った李登輝(りとうき/リートンホイ)総統は、島内の民主化を進める一方、外に向かっては台湾の主体性を積極的に追求する姿勢を示し、中台交流の枠組みづくりを主導する試みを開始したのである。

 台湾政府は1990年以降、対中国政策の基本として「国家統一綱領」を制定し、「両岸人民関係条例」によって中台間の交流の法的枠組みを整えた。直接投資に関しては、1989年に労働集約型産業を中心に開放する方針を明らかにし、以後、漸進的に規制を緩和してきた。

 組織面では、総統府に国家統一委員会、行政院(内閣に相当する)に大陸委員会を設置して、対中国政策の策定にあたらせ、さらに交流の実務を担う民間組織として海峡交流基金会を設けた。海峡交流基金会の会長、辜振甫(こしんほ/クーチェンフー)は、カウンターパートの中国の対台湾交流組織である海峡交流協会の会長、汪道涵(おうどうかん/ワンダオハン)と1993年と1998年に会談している。これが現在までの中台間のもっとも高いレベルでの接触である。

[佐藤幸人]

現在――深化する台湾と中国の分業関係

今日の台湾と中国の経済について、はじめにその枠組みを概説し、つぎに統計データからその実態に迫りたい。

 中台経済交流に対しては、台湾側が間接的な交流を大原則としてきた。そのため、ヒトもモノも香港(ホンコン)、マカオ(澳門)を含む第三国を経由しなくてはならない。これに対して、直航の是非が中台間の重要な政治的議題の一つになっている。また、台湾政府は中台経済交流の急速な進展を望まず、そのため種々の規制を設けてきた。貿易に関しては、台湾からの輸出に対する特別の規制はないが、台湾への輸入は半数近い品目が依然として禁じられている。台湾から中国への直接投資は、「戒急用忍」政策によって、インフラ関連、ハイテク関連、5000米ドル以上の案件が禁止されている。中国から台湾への投資に対する規制はいっそう厳しく、ほぼ全面的な禁止に近い。

 なお、2001年11月に中国と台湾のWTO(世界貿易機関)正式加盟が承認された。今後、台湾側の輸入に対する規制および中国から台湾のサービス業への投資に対する規制は、緩和ないし撤廃が迫られると考えられる。

 このように現在に至るまで数多くの規制があったにもかかわらず、中台間の経済交流は急速に発展してきた。まず貿易の状況について表1に示した。注意したいのは、先に述べたように、中台間の貿易はすべて第三国を経由しているため、台湾の統計では台湾から中国への輸出がわからないことである。

 幸いなことに、大部分間接貿易が経由している香港は再輸出統計を公表しているので、これによって香港を経由する台湾から中国への輸出のかなりの部分が把握できる。しかし、これだけでは足りない。1990年代に入って、香港経由といいながら、通関せず、積み替えのみ行うケースが急増したからである。この部分については、台湾側の統計にある香港への輸出と、香港側の統計にある台湾からの輸入の差によって推計されている。結局、台湾から中国への輸出は、この推計値と香港の再輸出統計の数値を足したものとされている。中国から台湾への輸入については、1993年までは香港の統計を用い、1994年以降、台湾の統計を使っている。

 表1からいくつかの特徴を読みとることができる。第一に、1990年代、台湾と中国の間の貿易は急速に増大した。1990年と1998年を比べると、輸出は4.5倍に、輸入は5.4倍になった。第二に、台湾側の大幅な出超が続いている。第三に、台湾にとっては輸出市場として、中国にとっては輸入元として、相互に重要な位置を占めるようになっている。

 このような特徴は、中台間の貿易が台湾から中国への直接投資と強く関連しているために生まれたものである。中国にある台湾系企業は、必要な資本財中間財の多くを台湾から輸入する。そのため、台湾系企業の増加にともなって、台湾から中国への輸出は増大する。しかし、台湾系企業は製品の大部分を中国で販売するか、第三国へ輸出する。だから、中国から台湾への輸出は、台湾から中国への輸出にははるかに及ばない。もっとも、台湾側の大幅な出超は、先に述べたように、台湾政府が中国からの輸入を制限していることにも一因がある。

 つぎに、直接投資の動向をみてみよう(表2)。直接投資の統計には台湾の認可ベース、中国の協議ベースと実行ベースの3種類がある。数値に大きな開きがあるが、実際の投資は中国の実行ベース統計をやや上回る水準にあると考えられる。台湾は中国にとって香港、日本、アメリカについで重要な投資国であり、中国は台湾にとって最大の投資先になっている。

 台湾の統計(1991年から1998年の累計)から投資の省別分布をみると、広東(カントン)省が最大で(34%)、ついで上海(シャンハイ)を含む江蘇(こうそ/チヤンスー)省(31%)、福建(ふっけん/フーチエン)省(11%)と続いている。当初、輸出産業は広東、福建の2省に集中したが、中国市場を目的とした投資が増えるとともに、江蘇省をはじめとする華東への投資が増大した。また、福建省の比率がそれほど高くないことに注意したい。台湾に住む多くの人の祖先は福建省から渡来したため、その関係を重視する見方があるが、あくまで立地を選定するうえでの要因の一つにしかなっていないのである。

 同じく台湾の統計から産業別に分けると、電機・電子産業がもっとも多く(27%)、以下、食品・飲料(11%)、金属(11%)、プラスチック製品(10%)の順になっている。電機・電子産業の多くは中国の低賃金労働力の利用を目的とし、食品・飲料産業は中国市場を目的とする投資の代表格である。

 このような統計データから明らかなように、台湾と中国どちらの経済にとっても、互いに欠くことのできない関係がすでに形成されている。中国にとっては、改革開放路線の推進力の一つとして台湾は必要であり、台湾の産業構造調整は中国を前提にしているのである。

 中国は1979年以降、改革開放路線をとり、高度成長を続けてきた。改革開放路線を推し進めたのは、郷鎮企業や私営企業と並んで、外資系企業だった。外資系企業は資本主義のお手本であり、また、中国に資金と技術と輸出市場をもたらし、多くの雇用を生んだ。既述のとおり、台湾は主要な投資国の一つとして、中国の市場経済化に貢献している。とくに台湾が手放しつつある産業の多くは、中国の発展段階に適合しているものが多く、中国の産業発展の重要なステップの一つとなっていると考えられる。

 一方、台湾は中国に競争力の低下した成熟分野を移転することによって、スムーズに産業構造の調整を進めることができた。台湾経済全体でみれば、労働集約型の製造業が中国に移り、かわってより技術集約的、資本集約的な製造業や第三次産業が発展した。産業および企業レベルでは、製靴や傘など、台湾で生産を続けることが困難な産業では、生産部門を中国に設け、台湾にはバイヤーとの窓口を残すという形で、中台間で分業している。また、自転車のように、製品のレベルに幅がある産業では、中国では低付加価値品、台湾では高付加価値品をつくるという分業体制を形成した。

 とくに注目すべきはパソコン産業の分業体制の形成である。現在、台湾企業はパソコンおよび関連製品を世界に供給している。そのうち、キーボードやCRTディスプレーのような成熟分野の生産は、賃金水準の低い中国に移している。

 また、1990年代に入って、台湾の部品メーカーのシフトが進んだため、広東省や上海市・江蘇省での部品調達が容易になったことも、組立メーカーの中国進出を促進している。一方、ノートブック型パソコンのような高付加価値品は、依然として台湾で生産を続けている。このように台湾のパソコン産業は、中台間の分業によって、先進国のバイヤーに対して、低価格品から高価格品まで、幅広い商品を供給できる体制を構築したのである。

[佐藤幸人]

未来――ねじれる経済と政治

純粋に経済面だけをみるならば、台湾と中国の経済交流は双方に大きなメリットをもたらし、今後もいっそう拡大する方向にある。

 しかし、政治面においては、台湾と中国の間にはにわかに克服しがたい矛盾がある。台湾側は中国との対等な関係を求めている。一方、中国側は台湾を一地方政府の地位に押し込めようとしている。だから、中国がそのような立場を前提にして「一国二制度」を提案しても、台湾は拒否するほかはない。一方、1999年に李登輝総統が提起した「特殊な国と国との関係」という位置づけ(いわゆる「二国論」)は、台湾にとっては譲れない一線だが、中国にとっては受け入れられるはずもない。

 経済交流は、上記のような中台間の政治的綱引きに巻き込まれざるをえない。中国側は中国に投資する台湾企業が親中国的な勢力となり、台湾政府に対して統一の方向に向かうように圧力をかけることを期待している。一方、台湾側にとっては、経済面で過度に中国に依存することは、その交渉力を弱めることになる。なかでも中国にある台湾系企業は、状況次第では人質となってしまうかもしれない危うさをもっている。だから、李登輝政権は中国の圧力や台湾企業の要望を受けながらも、漸進的な規制の緩和という慎重な姿勢を維持してきた。

 重要なことは、その背景として、台湾の世論には中国に対する根深い不信感があるということである。経済面をはじめとする中国との交流は、一面において彼我の違いの大きさを台湾の人々に認識させた。そのうえ、1996年の総統選挙前の中国の軍事演習は台湾の人々の警戒心を高め、1999年の台湾大地震での中国の対応は幻滅感を与えた。だから、台湾の人々は基本的に政府の慎重な対中国政策を支持してきた。2000年の総統選挙前に発表された『台湾白書』や朱鎔基(しゅようき/チューロンチー)発言は、さらに台湾の人々の心を中国から遠ざけたといえよう。

 2000年の台湾の総統選挙では陳水扁(ちんすいへん)が選ばれた。彼はかつて独立を唱えたが、選挙戦では柔軟な路線を示し、中台経済交流の推進に意欲的な態度をみせている。海運と航空業界の雄であるエバーグリーン(長栄集団)総裁の張栄発(ちょうえいはつ/チャンユンファ)のように、交流推進に積極的な企業家からも支持を得た。しかし、先に述べたように、世論は交流の進展に慎重なので、陳水扁政権も前政権と同様、経済交流に関する規制は漸進的に緩和するという方針になると考えられる。

 むしろ気になるのは、中国が従来の方針を修正しつつあるようにみえることである。張栄発など陳水扁を支持した企業家に警告を発するという、従来にはみられなかった動きがある。それは戦術的というよりは、いっこうに統一への道筋の見通しが立たないことへの焦りが感じられる。しかし、このような姿勢の変化は経済交流を萎縮させかねない。経済交流こそが中台関係の求心力となってきたことを、今一度、思い起こす必要があるだろう。

[佐藤幸人]

『若林正丈著『東洋民主主義――台湾政治の考現学』(1994・田畑書店)』『石原享一編『中国経済の国際化と東アジア』(1997・アジア経済研究所)』『井尻秀憲編『中台危機の構造――台湾海峡クライシスの意味するもの』(1997・勁草書房)』『山本勲著『中台関係史』(1999・藤原書店)』『愛知大学国際問題研究所編『中台関係の現実と展望――国際シンポジウム二十一世紀における両岸関係と日本』(2004・東方書店)』『石田浩著『台湾民主化と中台経済関係――政治の内向化と経済の外向化』(2005・関西大学出版部)』


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