下野田村(読み)しものだむら

日本歴史地名大系 「下野田村」の解説

下野田村
しものだむら

[現在地名]新宮町下野田

馬立うまたて村の南東に位置し、栗栖くりす川の下流域に立地する。揖東いつとう郡に属した。文禄四年(一五九五)一二月一日の豊臣秀吉知行方目録(教行寺文書)によると、中庄なかのしよう内野田村の七三二石余が小早川秀秋に与えられているが、この野田村は当地を含む付近をさしたものか。慶長国絵図に下野田村とみえる。江戸時代は初め姫路藩領、元和三年(一六一七)鵤藩(のち新宮藩)領となる(同年「揖東郡郷帳」池田家文書など)。寛文一〇年(一六七〇)幕府領となり、同一二年に龍野藩領となったが(貞享元年「脇坂淡路守領知目録」脇坂家文書など)、延享三年(一七四六)三卿の一橋領となり、幕末まで続いた(「一橋家領知高帳」一橋徳川家文書など)。元和三年の揖東郡郷帳では高四〇〇石余。正保郷帳では田方二九〇石余・畑方四三石余。元禄郷帳では高三四七石余。

下野田村
しものだむら

[現在地名]吉岡村下野田

上野田村の東に位置し、北は滝沢たきざわ川により八木原やぎはら(現渋川市)に対し、南は大久保おおくぼ村・南下みなみしも村。東部を佐渡奉行街道が通り、同道によって半田はんだ(現渋川市)と分けられる。南部を伊香保いかほ道が通る。中央を吉岡川が東流するが、おもな用水は滝沢川より取水した。かつては長岡ながおか(現榛東村)などとともに一村をなし、のちに野田村として独立、近世初頭上・下二村に分れたという。「寛文朱印留」に村名がみえ高崎藩領。寛文郷帳では田方三四五石余・畑方二一六石余。元禄郷帳では旗本川勝領などの三給。安政二年(一八五五)の渋川村組合村柄書上帳(堀口文書)によると、幕府領・旗本杉山領の相給。

下野田村
しものだむら

[現在地名]姫路市飾磨区下野田しかまくしものだ・飾磨区下野田一丁目・飾磨区三和町しかまくさんわちよう飾磨区中野田しかまくなかのだ一―三丁目

飾東しきとう郡に所属。野田のだ川の下流域に位置する。村全体が平坦な沖積平野上に立地し、西は恵美酒えびす村。中世は野田村として飾万津しかまつ郷のうちに含まれていた。正長二年(一四二九)正月二五日の沙弥性勲下地寄進状(松原八幡神社文書)によると、「餝万津郷野田村」の下地一町が松原まつばら八幡宮に寄進されており、同年八月日の沙弥性勲下地坪付注文(同文書)に一町の内訳が記される。応仁三年(一四六九)三月二八日、野田村の下地一町が同社に寄進された(「真恩下地寄進状」同文書)。文亀三年(一五〇三)八月吉日の重慶等連署散用状(同文書)によれば、野田分の田一町(分米六石余)から三石余が松原八幡宮に納入されており、野田の井堰の井料経費は三斗であった。

下野田村
しものだむら

[現在地名]浦和市下野田

中野田なかのだ村の南に位置し、東は綾瀬川を挟んで埼玉郡さき新田(現岩槻市)洪積台地沖積低地からなり、村内を伝右でう川が流れる。寛永二年(一六二五)一二月松野勘平(資信)は徳川氏から「野田村」で七二石を宛行われた(記録御用所本古文書)。この野田村は当村のことと思われる。田園簿では田四八八石余・畑八九石余で、うち旗本松野領七二石・岩槻藩領五〇五石余。延宝八年(一六八〇)の岩付領内村名石高家数人数寄帳(吉田家文書)によると岩槻藩領分の家数一一(うち水呑四)、人数五四。その後岩槻藩領は収公され、元禄年中(一六八八―一七〇四)旗本菅沼・永見・加藤・山田の四氏に与えられ、合せて五給となったという(風土記稿)

下野田村
しものだむら

[現在地名]勝北町下野田

現町域南端に位置し、北は上野田村。山形仙やまがたせん広戸仙ひろどせんの形成する扇状地の最南部に立地。正保郷帳に村名がみえ、田一四三石余・畑三八石余。元禄一〇年(一六九七)美作国郡村高辻帳では改出高三九石余・開高六石余、村位は下。美作国郡村高并戸数里程事(武家聞伝記)によれば、延宝(一六七三―八一)頃と考えられる戸数二四。津山藩主森氏断絶後は幕府領だが、宝永五年(一七〇八)の一ヵ年は甲斐甲府藩主徳川綱豊領、のち幕府領、享保二〇年(一七三五)から遠江浜松藩預、延享二年(一七四五)から因幡鳥取藩預、明和七年(一七七〇)から大坂城代久世領、安永三年(一七七四)から播磨三日月藩預、文化七年(一八一〇)から播磨龍野藩預、そのほかは代官支配(明治一二年「郡村地誌取調書」大岡文書ほか)

下野田村
しものたむら

[現在地名]上越市下野田

本道ほんどう村の東にある。当地に真宗大谷派本覚ほんがく坊があり、同坊には戦国期以降の本願懇志請取状約一〇〇点が蔵される。それらにより当村をはじめ春日山かすがやま城下・府内ふないいな村・富岡とみおか村・高森たかもり村・新保しんぽ村・桐原きりはら村・野田村などに真宗門徒がいて講を結成していたことが知られるが、当地辺では「惣寄衆」は「十三日講」、「女ほう衆」は「廿五日講」を結んでいた。なお本覚坊は文明九年(一四七七)越前から移転してきたという。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図に「神保惣二郎分直海分林泉寺分水無瀬分下野田村 上」とみえ、本納一〇七石七斗二升二合・縄高一四〇石四斗、家一五軒・七九人。

下野田村
しものだむら

[現在地名]白岡町下野田

隼人はやと堀川と姫宮ひめみや落川の間にあり、北は上野田村・爪田つめた村。黒沼くろぬま用水・笠原沼かさはらぬま用水が流れる。南北に日光御成道が走り一里塚がある(県指定文化財)。中世には鎌倉街道中道が通ったと考えられる。百間もんま領のうち。上野田村と一村であったが享保(一七一六―三六)の初め頃分村した(風土記稿)。同一二年・一六年新田検地、同一九年持添の笠原沼新田に筧播磨守が奉行人となって検地が実施され、幕府領となった(同書)

下野田村
しものだむら

[現在地名]中津江村栃野とちの

江戸時代はほぼ野田村として推移するが、幕末期に上野田村(現上津江村)・下野田村に分村する。上野田村とは飛地関係にあり、鯛生たいお川左岸の野田・小野田おのだなどの集落からなる。対岸は肥後国。下野田村の史料上の初見は旧高旧領取調帳で高一二八石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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