下肴町(読み)しもさかなまち

日本歴史地名大系 「下肴町」の解説

下肴町
しもさかなまち

[現在地名]鶴岡市本町ほんちよう一丁目

うち川南岸、荒町あらまち(現大泉橋)の南にあり、ほぼ南北に続く町人町。当町から南、五日いつか町・三日みつか町・十日とおか町と交差しながら南へ延びる通りはとおり丁とよばれる。「大泉掌故」には当町の畳屋の先祖佐藤七左衛門は五日町口の門脇に住していたとの言伝えがみえるから、最上氏時代にはのちの郭内馬場ばば町付近にあり、酒井氏入部後の郭内拡張の際、現在地へ移転したとみられる。延宝六年(一六七八)の城下絵図では下肴町一〇三間とある。元禄九年(一六九六)の城下大絵図では八八間。天和三年(一六八三)の町割は一町半、川端通は一町二間、家数六三、男二五五・女一九六(「鶴ヶ岡町割家数人数書上」鶏肋編)。元禄七年の人別改帳(川上記)では本屋数五六、男二一九・女一八六、名子家数一三、男四九・女三八(宿借・店借とも)

下肴町
しもさかなまち

[現在地名]秋田市おお町五丁目・同六丁目の各一部

ほん町五丁目小路、よこ町の西部分。「上肴町記録」所収の「家督物」(秋田市史)にみえる正徳元年(一七一一)六月二一日の「乍恐以口上書御訴訟 」に「下肴町之儀湊越上肴町より弐拾年後に御願申上候、下肴町へ肴家督被仰付候」とある。上肴かみさかな町の町割は慶長一七年(一六一二)以前だから、下肴町の家督は元和年間(一六一五―二四)末であろう。町割は「梅津政景日記」寛永二年(一六二五)一一月三〇日条に「通町本町つきぬきより下肴町、家数拾四、五、夜ニ入火事出来、やけ申候」とある。

下肴町
しもさかなまち

[現在地名]岡崎市うお

岡崎城の北外郭内大林だいりん寺の西側に南北に通ずる東海道往還筋の町。町の長さ二町三七間・幅二間二尺。初めは肴町とだけよんでいたが、正保年中(一六四四―四八)伝馬てんま町の本陣・旅籠屋へ魚鳥の供給が不便であったため、この町から六人の者が伝馬町の近くに引越して新肴町をつくり上肴町と称した。文政一二年(一八二九)魚の専売権をめぐり土呂とろの市との間に紛争が起きた時の訴訟文(岡崎市史)に、

<資料は省略されています>

と、この町の由来が記されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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