下津井村(読み)しもついむら

日本歴史地名大系 「下津井村」の解説

下津井村
しもついむら

[現在地名]倉敷市下津井・下津井一―五丁目

南と西は瀬戸内海に面し、東は吹上ふきあげ村と接する。下津井四ヵ浦の一つ。古くより瀬戸内海の要港として栄えた。近世初頭には城下町として、近世を通じ商港・漁港、また金毘羅往来の渡海港として賑う在町であった。

寿永二年(一一八三)七月、西海に逃れた平氏一門・安徳天皇らは下津井から出帆し鎮西に至っている(「吾妻鏡」同三年二月二〇日条)。「平家物語」巻九(六ヶ度軍)によると平教盛・通盛・教経父子が下津井にいると聞き、阿波・讃岐の在庁らが攻めている。文安二年(一四四五)の「兵庫北関入船納帳」によれば、米・豆・大麦・塩・鰒干物・小鰯などを積んだ当地からの船が兵庫北関へ入津しており、延べ三二回は備前では牛窓うしまど(現邑久郡牛窓町)に次ぐ。また一説では「海東諸国紀」の「小島津」、「老松堂日本行録」の「下津」は当地に比定される。そのほか天正四年(一五七六)の「伊勢参宮海陸之記」、文禄三年(一五九四)の「新納忠元上洛日記」、慶長三年(一五九八)の「九州下向記」などに筆者の寄港がしられる。一方、天正五年八月三日の小早川隆景・福原貞俊連署状(萩藩閥閲録)などによれば、毛利氏や宇喜多氏にとっての兵船の供給地でもあった。

備陽記」や「備前記」によると、以前は長浜ながはま村と称したという。元和三年(一六一七)の児島郡物成帳に「下津井之内長浜村」とあり、田畠合せて高二〇五石余・加子米七石四斗がある。慶長一一年に築城がなり池田長政が居城し、寛永一六年(一六三九)池田由成が天城あまきに移転するまで城下の町場として発展、同一九年に在町に指定された(「法例集」池田家文庫)

下津井村
しもついむら

[現在地名]大正町下津井

中津川なかつがわ村の西北、蛇行しながら南流する檮原ゆすはら川に笹平ささひら(一〇三四・四メートル)の南から東流するまつ川が合流する辺りを中心として展開する村。上山かみやま上分かみぶんの一村。西北は伊予国に接する。「土佐州郡志」は「東限矢立坂峠、西限予州界地蔵森、南限下道村、北限津野山、東西三里南北一里十町、戸凡二十九、其土赤交石」と記す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報