中津川村(読み)なかつがわむら

日本歴史地名大系 「中津川村」の解説

中津川村
なかつがわむら

[現在地名]中津川市宮前町みやまえちよう中川町なかがわちよう北野町きたのちよう小川町おがわちよう栄町さかえまち太田町おおたまち一―三丁目・新町しんまち淀川町よどがわちよう東町ひがしまち東宮町ひがしみやまち日の出町ひのでちよう中一色町なかいつしきちよう花戸町はなどちよう・えびすちよう桃山町ももやまちよう本町ほんまち一―四丁目・西宮町にしみやまち昭和町しようわまち八幡町はちまんちよう・中津川

木曾川の支流、川上かおれ(中津川)の東岸、四ッ目よつめ川扇状地上に立地する。川上川対岸に手金野てがねの村・駒場こまんば村があり、東は上金うえがねの丘陵を越して落合おちあい村となる。宿村である中津川は支村の川上と宿の在郷を形成する中村なかむら実戸さんと北野きたの・上金・子野この・川上・町の七つの組で構成されていた。明徳元年(一三九〇)五月六日の足利義満御教書(瑞巌寺文書)によれば「中津河地頭職」が瑞巌ずいがん(現揖斐郡揖斐川町)に与えられているが、当地をさすか不詳。

慶長一二年(一六〇七)山村甚兵衛が市岡喜平次に宛てた年貢諸役の免除状(塚田克己氏所蔵文書)には「中津川村之内小野、五年之間、年貢諸役免許候」と、小野(子野)の地名がでている。「木曾故事談」は「請取米事、合拾俵納四斗入引起、右者井口傅左衛門に貸し候間、無相違可相渡者也以上、寛永六 巳十一月廿五日山甚 市岡長右衛門殿」と、文書の内容をあげ「右節長右衛門中津川代官相勤候与見へ候 此以前何年□被仰付候哉」としている。

中津川村
なかつがわむら

[現在地名]大滝村中津川

新大滝しんおおたき村の西北に位置する。西から北にかけて信濃国・上野国との国境で、高山に囲まれた山間地である。荒川支流中津川が村の中央を西から東へ流れ、新大滝村秩父甲州往還から分岐した道が中津川に沿って通り、三国みくに峠を越え信濃国に向かう。近世を通じて幕府領。「風土記稿」に載せる正保国絵図などに村名がみえるが、田園簿には無高であったため記載がない。元禄郷帳では高一三石余。近世前期には検地もなく、年に巣鷹三居を幕府に上納する以外の年貢・諸役は免除されていた。元禄一〇年(一六九七)代官岡田五右衛門の検地が行われ、村高一三石一斗余、畑・屋敷反別一一町二反余となり、ほかに山役銭として永一貫三一一文が課せられ、除地が諏訪明神など二反三畝となっている。翌一一年枝村の白井差しろいざす(現両神村)を分郷、高二石四斗余を分けた。この結果、村高は一〇石六斗余・反別九町五反余となる(「明鑑」幸島家文書)。年貢は、検地以来切替定免であったが、寛政年中(一七八九―一八〇一)に永代定免となった(風土記稿)

中津川村
なかつがわむら

[現在地名]郡山市中田町なかたまち中津川なかつがわ

柳橋やなぎばし村の南に位置する阿武隈高地西麓の山間の村。峡谷中のわずかな平坦地を開き、黒石くろいし(八九六メートル)に発する細流を集めた黒石川を用水として農耕に従事してきた。古くから中通りと浜通りを南北に結ぶ道路も開かれ、交通の要地でもあった。応永一一年(一四〇四)七月日の仙道諸家一揆傘連判(有造館本結城古文書写)に「中津河 参河守秀清」がみえる。天文一〇年(一五四一)五月二三日の田村義顕・同隆顕連署証文(伊達家文書)によれば、中津川氏の仙道筋での行動を咎めた伊達稙宗・晴宗に対して、田村義顕父子は田原谷たわらや(現小野町)・中津川城を破却し、中津川千々丸を小規模な中津川旧要害に逼塞させることを約している。

中津川村
なかつがわむら

[現在地名]吉松町中津川

現吉松町の中央西寄り、霧島山の北西麓盆地にあって、川内せんだい川上流左岸の丘陵地に立地。元和三年(一六一七)六月一五日の川添かわそえ内小野うちおの(現廃寺)の知行名寄帳(旧記雑録)によれば、「中津川吉松吉松門」は同寺秀真坊領であった。また中津川村のうち松園屋敷も秀真坊領であった(元和六年三月一九日「内小野寺知行名寄帳」同書)。寛文四年(一六六四)の郡村高辻帳に村名がみえ、高四七二石余。

中津川村
なかつがわむら

[現在地名]牧園町下中津川しもなかつがわ高千穂たかちほ

宿窪田しゆくくぼた村の南東に位置し、村内を南西流する中津川は村の南西端で天降あもり川に合流する。北東の上中津川を挟んで飛地があり、現在大字高千穂となっている。中世は中津河なかつがわのうちに含まれる。天降川との合流点手前の中津川に犬飼いぬかい滝がある。天正一三年(一五八五)五月一五日、上井覚兼は犬飼滝を見物して「曇なく日か(けカ)うつろふ晴間にもさみたれ増る滝の白糸」と詠み、「犬飼の里」で夫丸(人夫)を先に行かせている(上井覚兼日記)

中津川村
なかつがわむら

[現在地名]粉河町中津川

中津川の上流、葛城(和泉)山脈の南麓に位置する広域の村で、北は葛城山脈を境界にして和泉国(現泉佐野市)と、北東は切畑きりはた(現那賀町)の山地など、南は粉河・東毛とうげ藤井ふじいの諸村と接する。「中津河」とも記す。中世は粉河寺領に含まれたが、江戸時代は和歌山藩領となった。伊都いと郡代官所の管下。慶長検地高目録によると村高は一二〇石余、小物成三斗八升五合。粉河組に属し、「続風土記」では高一五〇石余、家数四一、人数二〇〇。

「続風土記」は「役ノ小角葛城を開きし時、斧を執りて前に在る者を前鬼といひ、後に在る者を後鬼といふ、後鬼の家は今大和ノ国吉野郡泥川村に五軒あり、前鬼の家は当村これなり、旧五軒なりしに子孫分れて別家となり十五軒許になる、又外より入来る者ありて今の姿となれり、小角の旧跡村中に最多し、これを行所と唱へて山伏の峰入する者皆行をなせり」と記している。

中津川村
なかつかわむら

[現在地名]池田町中津川

漆川しつかわ村の南西、漆川谷に沿う傾斜地にあり、南は松尾まつお村、西は大利おおり村。慶長二年(一五九七)の分限帳に中津川谷とみえ、三一石が牛田掃部助の知行。正保国絵図に中津川山とみえ、高三一石余。寛文四年(一六六四)郷村高辻帳でも同様で、すべて畑方、芝山・小はへ山の注記がある。明暦四年(一六五八)の検地帳(池田町公民館蔵)では田六町四反余・高六石余、畑一〇町二反余・高四〇石、上毛高二石余。延宝二年(一六七四)の棟付帳(同館蔵)では高四八石余、家数一九・男三九、肝煎は市郎右衛門。

中津川村
なかつかわむら

[現在地名]野迫川村大字中津川

川原樋かわらび川・池津いけつ川合流地の東北に立地。俗に「なかつこ」とよぶ。天禄二年(九七一)の僧光序山地売券案(高野山文書)に「中津河」の地名がみえ、永治二年(一一四二)の金峯山寺牒(同文書)遠津川とおつかわ郷内領として中川(中津川)がみえる。「太平記」の「大塔宮熊野落の事」には「小原・芋瀬・中津川・吉野十八郷ノ者迄モ、手刺者候マジキニテ候、トゾ申ケル」「其路、小原・芋瀬・中津河ト云フ敵陣ノ難所ヲ経テ通ル路ナレバ」などとある。

江戸時代には十二村じゆうにそん川波かわなみ組に属す。慶長郷帳では十二村二〇〇石のうちに含まれ、幕府領。

中津川村
なかつがわむら

[現在地名]大野見村萩中はぎなか

萩野々はぎのの村の北、中津川なかつがわ(現萩中川)上流部にあり、半山はやま(現葉山村)方面から入ってきた人々によって比較的早くに開拓された地と考えられる。天正一六年(一五八八)の津野大野見村地検帳では村域は判然としない。

江戸時代は大野見郷に属し、大野見村の枝郷。元禄地払帳では萩野々村と合わせて記されるが、元禄郷帳によれば中津川村の本田高八四石余。寛保郷帳では戸数四二、人口二三一、馬一六、牛一五、猟銃一六で、牛の飼育率が隣村に比して高い。

中津川村
なかつがわむら

[現在地名]城川町古市ふるいち 中津川

黒瀬くろせ川の支流三滝みたき川とその支流中津川に沿う小山村。北・西・南は四〇〇―六〇〇メートル級の山に囲まれる。宇和島藩領。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の宇和郡の項に「中津川村 柴山有、茅山有」とある。「大成郡録」に古市村庄屋支配とあるが、「東宇和郡沿革史」は寛政元年(一七八九)の庄屋を三瀬義助としており、一八世紀末には庄屋役が独立して置かれたといえよう。

太閤検地の石高は三〇石九斗、耕地面積の比率は田四〇パーセント、畑六〇パーセントであったが、寛文検地には六・七倍に耕地が増加し、田二〇パーセント、畑八〇パーセントの比率に変化している。畑の一二倍増という急速な開発の結果である。

中津川村
なかつがわむら

[現在地名]石岡市中津川

恋瀬こいせ川左岸、石岡台地の南縁端にあり、北はたいら村。江戸初期に府中藩領となり(府中雑記)、のち旗本領となる。元禄郷帳の村高は四八四石余、幕末は旗本駒井氏領四八四石余(各村旧高簿)。明治初年志筑藩領となる(千代田村史)

かみみやに旧村社手子后てごさき神社(祭神奈美松命・古津松命)、下ノ宮に神武じんむ(祭神奈美松命・古津松命・神武天皇)がある。

中津川村
なかつがわむら

[現在地名]窪川町中津川

四万十しまんと川右岸、こめかわ村本村の北にある。「仁井田郷談」(「南路志」所収)によれば古く仁井田にいだ神田こうだ郷四村の一。「土佐州郡志」には仁井田郷に属する中津川村と、米ノ川村の小村の一である中津川村に別記され、郷帳類では米ノ川村小村の中津川村の高は米ノ川村の高のうちに含まれたと考えられる。天正一六年(一五八八)の仁井田壱斗俵村地検帳に村名がみえ、津野氏の家臣南部一族の給地五町六反余と、同地検帳に付された仁井田津野領入組地検帳の志和・西両氏相持地五反余からなっていた。

中津川村
なかつがわむら

[現在地名]洲本市中津川組なかつがわぐみ

由良ゆら浦の西、淡路島南岸東部にあり、津名つな郡に属する。西方の相川あいかわ村・畑田はただ村と合せ上灘かみなだ三ヵ村とよばれ、山地から直接に海に流入するたち川・中津川など短い河川の流域の狭小な斜面上にある。天正一四年(一五八六)一一月三日の羽柴秀吉知行方目録にみえる「なた三河内」はこの三ヵ村をさすと考えられ、高五六石七斗八升が脇坂安治領となっていた。正保国絵図には「上灘三ケ村之内」として中津川村がみえ、高は三ヵ村合せて六六石余。

中津川村
なかつがわむら

[現在地名]北区くもはた中津川町

雲ヶ畑三ヵ村の一つで、雲ヶ畑川の最も下流に位置し、その支流中津川沿いに村落が点在する。

享保一四年(一七二九)山城国高八郡村名帳による村高は三六石二斗七升余で、すべて仙洞御料。他の二ヵ村とともに雲ヶ畑川の鮎を仙洞・朝廷へ献上し、慶応四年(一八六八)四月付の中津川村鑑帳(洞谷寺中津川町共有文書)にも、「禁裏御所御用鮎漁猟相勤申候」と記される。南に隣接する上賀茂かみがも村と中世以来しばしば山境の相論を起こし、近世にもやむことがなかった(→中畑村

中津川村
なかつがわむら

[現在地名]八幡浜市中津川

五反田ごたんだ川の支流、中津大川に沿う山村。西は布喜川ふきのかわ村に接する。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の宇和郡の項に「中津川村 茅山有」と記される。宇和島藩領。

太閤検地の石高は二六二石二斗で、耕地面積の比率は田五二パーセント、畑四八パーセントであったが、寛文検地では石高が一・四倍に増加し、田一八パーセント、畑八二パーセントに大きく変化した。「墅截」による村柄は「上」、耕地は田が「中」、畑が「上」、水掛りは「吉」。鬮持制実施期の本百姓一人前の耕地は田三反八畝一八歩、畑一町四反四畝二一歩であり、百姓数五七人のうち本百姓四五人、半百姓九人、四半百姓二人、庄屋一人に分れていた。

中津川村
なかつかわむら

[現在地名]川辺町中津川

白馬しらま山脈の南側に位置する山村。東は蛇尾へびお村、南東は玄子げんこ村。慶長検地高目録によれば村高一四一石余、小物成三斗一升九合。延宝六年(一六七八)の「日高鑑」では田畑一三町六反余、高一四五石余、家数五〇で内訳は本役一三、半役一七、無役一七、庄屋・年寄各一など、人数一五三、牛一七、馬一、鉄砲三、御蔵一。江川組に属し、幕末には高一七〇石余、家数八五、人数三二二に増加(続風土記)

中津川村
なかつがわむら

[現在地名]大正町中津川

大奈路おおなろ村の北方、檮原ゆすはら川支流中津川の上流域にある。上山かみやま上分かみぶんの一村。「土佐州郡志」は「東限幾登幾森、西限矢立坂、南限臼杵、北限津野山松原村、東西四十五町南北一里、戸凡二十三、其土黒」と記す。

村名は慶長二年(一五九七)の上山郷地検帳にみえ、検地面積は六町四反余。ほかに切畑若干がある。江戸時代の中津川村はこのほか同地検帳に載る「森河内村」を含むと考えられる。同村の検地面積は一町八反余、ほかに切畑若干がある。

中津川村
なかつがわむら

[現在地名]大野市中津川

清滝きよたき川と赤根あかね川に挟まれた農村。地名は文明九年(一四七七)七月一四日付朝倉光玖安堵状(洞雲寺文書)に「中津郷」とみえる。また永禄一一年(一五六八)六月二日付高村存秀当知行目録(平泉寺文書)に「中津(川カ)村」とあり、さらに同一二年六月一六日の宝慶寺寺領目録(宝慶寺文書)にも「中津川村」分がみえる。

慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では中荒井なかあらい(高二六二八・七四九石)に含まれ、近世初期に分村したと推定される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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