下榎村(読み)しもえのきむら

日本歴史地名大系 「下榎村」の解説

下榎村
しもえのきむら

[現在地名]日野町下榎

安原やすはら村の南西北東流する日野川左岸段丘上に位置する。村内を日野往来の左岸路が通る。長谷部氏家譜(長谷部家文書)によると、治承四年(一一八〇)九月、以仁王の家臣長谷部信連は平氏の手によって日野郡金持かもち村に配流となり、寿永二年(一一八三)当村に移住したとされる。当地には長谷部信連屋敷跡があり、「伯耆志」は屋敷跡を村中央の土居どいうちにあるとするが、実際は当地西端部にある。東西約八五メートル・南北約七〇メートル、堀跡および礎石らしきものが現存し、典型的な中世土豪屋敷跡といわれる。屋敷跡東側に東西約一五〇メートルの馬場ばばとよばれる平地が残り、御門脇みかどわき馬場ばばうえ馬場ばばまえ・上馬場・下馬場などの地名が残る。屋敷跡付近は上榎と通称されるが、毛利氏家臣とされる元信の元亀四年(一五七三)八月吉日の雅楽孫四郎宛書状(長谷部家文書)などに「上榎村」の社役について記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報