下桶屋町(読み)しもおけやちよう

日本歴史地名大系 「下桶屋町」の解説

下桶屋町
しもおけやちよう

[現在地名]高岡大町おおまち

桶屋町の北に並行して東西に延びる両側町で、北はあぶら町。正徳三年(一七一三)桶屋町から分離して成立(高岡誌)本町で、時割は一時三分三厘三毛、地子地一千七〇四歩(不歩記)。明治六年(一八七三)には役地・地子地を含め三千一〇九坪二合(沽券調総計帳)。天明五年(一七八五)の家数四四(家数書上帳)、明治五年の家数六一(高岡史料)千保せんぼ川に近く、河岸本蔵が置かれた。能登塩を一時同蔵に積置き、さらに高岡古城本丸の御塩蔵に運ばれた。嘉永三年(一八五〇)の高岡輿地全図には、町西端の千保川右岸近くに御塩仮蔵とみえるが、同五年から藩倉に改められた(高岡市史)

下桶屋町
しもおけやちよう

[現在地名]静岡市紺屋町こうやまち昭和町しようわちよう

駿府城下の縦筋(縦町)第四行南端の西の片側町。北は江尻えじり町、東は鍛冶かじ(以上、町方絵図・新版「静岡市史」)。「駿府広益」によれば、徳川家康駿府在城時に桶職人二四人を出役させ、飯料は下付されたが、作料は与えられないため諸役免除となった。その後、徳川頼宣・忠長の時に作料・飯米は下付されたが、引続き諸役免除で、伝馬てんま町人足は勤めた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報