下曾根金三郎(読み)しもそね・きんざぶろう

朝日日本歴史人物事典 「下曾根金三郎」の解説

下曾根金三郎

没年:明治7.6.5(1874)
生年:文化3(1806)
幕末砲術家,洋式兵学者。諱は信敦。威遠と号した。長崎・江戸奉行の筒井政憲次男で下曾根家を継ぐ。天保12(1841)年幕命によって江川太郎左衛門と共に高島秋帆に就いて洋式砲術を学ぶ。のち芝赤羽橋に下曾根稽古場を設けて洋式兵学を教授し,家塾を 膺懲館と称して洋式兵学に関する翻訳書を数多く刊行した。嘉永6(1853)年ペリーの再渡来時には銃隊を率いて警護に当たる。安政3(1856)年講武所開設に際して砲術師範役を勤め,文久2(1862)年甲斐守に任じられ,翌年6月歩兵奉行,慶応2(1866)年陸軍所修業人教授方頭取となる。菓子づくりもし,甘納豆の創製者といわれる。<著作>『経済弁』『歩操軌範』

(所荘吉)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「下曾根金三郎」の解説

下曾根金三郎 しもそね-きんざぶろう

1806-1874 江戸時代後期の武士,砲術家。
文化3年生まれ。筒井政憲(まさのり)の次男。下曾根家をつぐ。幕臣鉄砲方となり,江川太郎左衛門英竜(ひでたつ)らと高島秋帆(しゅうはん)に西洋砲術をまなぶ。下曾根稽古場をひらき,洋式兵学を教授。講武所砲術師範,歩兵奉行をへて,慶応2年陸軍所の修行人教授方頭取となり,軍制改革に参画した。明治7年6月5日死去。69歳。名は信敦(のぶあつ),のち信之。号は桂園,威遠。

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