下戸倉村(読み)しもとぐらむら

日本歴史地名大系 「下戸倉村」の解説

下戸倉村
しもとぐらむら

[現在地名]戸倉町戸倉

東は福井村、南は上戸倉村、北は内川村に接し西は千曲川を境として、更級さらしな若宮わかみや村と対する。明徳四年(一三九三)の某宛行状(笠系大成附録)によれば、南条之郷と十蔵(戸倉)之郷はその時小笠原辰寿丸に安堵された。その後慶長七年(一六〇二)の川中島四郡検地打立之帳には、「戸倉村 高七百八拾六石弐斗四升八合」とあり、森忠政の検地でも上下戸倉は分れていなかった。村が二分されて現れるのは、元和八年(一六二二)幕府によって、坂木五千石が松平光長領として与えられてからのようで、延宝七年(一六七九)逆木御高帳(津山博物館文書)

<資料は省略されています>

とある。

下戸倉村
しもとぐらむら

[現在地名]村松町下戸倉

はく山山麓の北西を流れるじよういり川の谷口に立地。北は山谷やまや村、南は上戸倉かみとぐら村。正保国絵図に高一七六石余、村松藩領。正保二年(一六四五)の高辻帳(中蒲原郡誌)には上下一村のように「戸蔵村」とある。幕末期の各大字所属石高及貢租(同書)では反別合計二九町三反余。村松藩の藩紙を漉く紙漉村で、一束二〇〇枚が代米で一斗、平均一一石余の御用紙を漉いている。いずはら紙および戸倉紙の名がある。現在は一軒だけ残る。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報