下仁田村(読み)しもにたむら

日本歴史地名大系 「下仁田村」の解説

下仁田村
しもにたむら

[現在地名]下仁田町下仁田

南西部で東流する南牧なんもく川と東南流する西牧さいもく川が合してかぶら川となり、南部を東流する。東は白山はくさん村、西は河井かわい村、北は南蛇井なんじやい(現富岡市)下小坂しもおさか村、南は吉崎よしざき村と接する。下仁田道より南牧道が分岐し、河岸・市場も設けられ、町場を形成していた。上信国境の余地よじ峠を越え松井田まついだ(現碓氷郡松井田町)を攻める武田勢などの通過地であった(「関八州古戦録」など)。寛文郷帳では幕府領で高三三八石余はすべて畑方。天明八年(一七八八)の村明細帳(原文書)では幕府領二〇八石余と旗本小笠原領三六五石余の二給。同帳によると耕地はすべて畑で四四町三反八畝余、農間稼は男は薪取、女は蚕、ほかに絹・麻布・冬春の紙漉で、四季打鉄砲六挺・猟師鉄砲四挺を所持した。また橋一三ヵ所・水車四ヵ所・百姓林二〇ヵ所があった。現下仁田町の特産と知られる葱も幕末頃には著名であったようで、文化二年(一八〇五)には江戸旗本から二〇〇本の急送を命じられている(「御用ねぎ急送方達」桜井文書)。「天保巡見日記」には「至極之上村也、爰ハ甲州信州之追分道ありて、家数三百軒もあるへし」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報