上野新村(読み)うえのしんむら

日本歴史地名大系 「上野新村」の解説

上野新村
うえのしんむら

[現在地名]金沢市小立野こだつの一―四丁目・上野本町うえのほんまち笠舞かさまい一丁目・三口新町みつくちしんまち三丁目

山崎やまざき領の南、小立野台地上に位置し、北東牛坂うしさか村。村域はもともと下小立野とよばれる原野であったが、寛永八年(一六三一)金沢城下大火で焼失した日蓮宗経王きようおう寺がのちに山崎領小立野において再建されたため、村地を失った同領の百姓辰巳たつみ用水の余水を用いて下小立野を開墾、立村した(加賀志徴・延宝年中社寺来歴)。開墾地が牛坂の上野とよばれる地域であったことから村名が生じたと伝え、一時上野村とも称されたが、延宝六年(一六七八)再び上野新村に改められたという(加賀志徴)

正保郷帳では山崎領と併記され、両村合せて高二七四石余、田方一四町八反余・畑方三町四反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高五七〇石(ほかに新田高八石)・免四ツ五歩で、物成のうち二〇石五斗は翌年三月の米納、一五石五斗は同年六月の銀納となっていた(三箇国高物成帳)

上野新村
うえのしんむら

[現在地名]関川村上野新

おんな川の左岸段丘上にあり、東は若山わかやま村、北西は川を隔て朴坂ほおざか村に接する。延宝―貞享年間(一六七三―八八)頃から小見おうみ村の大庄屋平田家を中心に、高御堂たかみどう(現神林村)の権四郎(大島姓)六蔵(平田姓)らにより開発されたという。元禄六年(一六九三)村上藩榊原氏の時検地を受けて成立、元禄郷帳に若山村枝郷として村名がみえる。村上藩領に属し、宝永六年(一七〇九)幕府領

上野新村
うわのしんむら

[現在地名]小杉町平野ひらの

上野村の東部に開かれた新田村。一村立ての年代は不明だが、寛文一〇年(一六七〇)の上野村の村御印(三箇国高物成帳)に「万治元年寛文六年新田高」として「四拾壱石 同新村分」とあるのが当村に当たるとみられる。その後延宝六年(一六七八)の新開高一四石余、元禄一二年(一六九九)の手上高六石余、享保八年(一七二三)の手上高八石、同一七年の手上高一石余、寛保三年(一七四三)の手上高二石余、天明六年(一七八六)の手上高二石が加わり(この間用水江歩引高も若干あり)、天明六年の草高は七五石・免四ツ。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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