日本歴史地名大系 「上藤塚村」の解説 上藤塚村かみふじづかむら 山形県:酒田市旧荒瀬郷地区上藤塚村[現在地名]酒田市藤塚(ふじつか)下市神新田(しもいちがみしんでん)村の南にある。文久二年(一八六二)の日向(につこう)川新川開削前は日向川左岸に位置し、洪水の被害をうけることが多かった。元和九年(一六二三)観音寺(かんのんじ)城(現飽海郡八幡町)の来次氏秀の臣であった堀兵助と弟大膳が当地を開発し、兵助の知行所として寛永四年(一六二七)丈量し高九九石余となった。大膳は作介と名を改めて当村の肝煎となる。のち日向川の洪水のため川欠地となり、同一一年高の三分の二を失って三九石余となった(大泉紀年)。その後も減少を続け村内の兵助知行高は九石余となったため(「正保庄内絵図」本間美術館蔵)、翌年兵助は荒瀬郷草津(くさつ)村(現八幡町)に兵助新田四四石余、平田(ひらた)郷大野新田(おおのしんでん)村に五〇石余を開発して知行所とした。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報