観音寺村(読み)かんのんじむら

日本歴史地名大系 「観音寺村」の解説

観音寺村
かんのんじむら

[現在地名]八幡町観音寺

荒瀬あらせ川中流右岸にあり、東はふもと村、西は小泉こいずみ村。初め枝郷として横町よこまち荒町あらまち・麓を含んでいたが、のちに麓が荒町を枝郷として独立した。戦国期から天正一九年(一五九一)までの間、来次氏の観音寺城下として町場も形成されていたとみられる。「三代実録」貞観七年(八六五)五月八日条に「以出羽国観音寺預之定額」とある定額寺観音寺は当地にあったとする説もあるが、観音寺なる寺は現在残っていない。

慶長一六年(一六一一)の荒瀬郷観音寺村検地帳写(庄司文書)に出羽遊佐ゆざ郡のうちとみえ、本田三万三千四五九束刈(年貢高三〇四石余)、出田一千五五〇刈(同一四石余)、苗代六八二束刈(同一四石余)、畑年貢高一石余、居屋敷二九、家数二九、漆木六八五本。名請人は七九で、他村からの入作が多く、来次氏の家臣で土着したと思われる掃部・尾張・中務守・外記・薩摩・対馬・内匠・主計・縫殿助などの名が、寺院では円通えんつう寺・長福ちようふく寺・ふげん院・すわの別当などがみえる。保有地の最も多いのは弥三で田二千七〇二束刈、次いで肝煎五郎左衛門一千六五六束刈。漆六八五本のうち五五六本は個人持分で居屋敷にあり、最も多いのは弥三の一〇一本、次いで新助九九本、すわの別当四一本の順で、残り一二九本は村入会地にあった。

観音寺村
かんのんじむら

[現在地名]徳島市国府町観音寺こくふちようかんのんじ

府中こう村の西にあり、西は名西みようざい尼寺にじ(現石井町)伊予街道が東西に通る。村名は天平一三年(七四一)の創建と伝える観音寺の寺名に由来し、同寺付近一帯は鎌倉後期のものと推定される阿波国観音寺訴状案(早稲田大学蔵興福寺領阿波国庄園文書)にみえる観音寺庄に比定される。寛文四年(一六六四)までは以西いさい郡に属した。慶長二年(一五九七)の分限帳によれば、観音寺は二二石余が寺沢弥次右衛門、二三六石余が稲田四郎左衛門、八四石余が河村喜八郎、二三石余が河井新介、六八石余が栗田千助の知行分。正保国絵図では高四三六石余。寛文四年の郷村高辻帳では田方三八〇石余・畠方五六石余。文化三年(一八〇六)の名東郡中地高物成調子帳(四国大学凌霄文庫蔵)によれば中村組に属し、高四三一石余、うち蔵入分一二石余・給知分四一九石余。同一〇年の高都帳では高四六七石余となっている。「阿波志」によれば土田は中等水田一〇分の八・下等陸田一〇分の二。

観音寺村
かんのんじむら

[現在地名]福知山市字観音寺

西流する由良川左岸に位置し、石原いさ村の北東にあたる。村の北部由良川に近い地域は自然堤防で、桑園となっている。

村の西北部小字大木巻おおぎまきから大正三年(一九一四)石剣が発見された。材質は黒色の粘板岩で総長二一・二センチの磨製であり、鋒部は細長く双刃をつけ、中央に鎬があり、九州北部や中国方面に出土する細形銅剣と酷似する。銅剣を模造したもので、権威の象徴として用いたものか、また西隣のおき村に式内社阿比地あびち神社が鎮座するので、宗教的意味を有するものかとも考えられている。

大木巻の地続きの小字中宮なかみやでは、昭和二六年(一九五一)弥生式土器・土師器・須恵器の破片と木炭が発掘され、相当長い間の住居跡と考えられた。

観音寺村
かんのんじむら

[現在地名]東根市観音寺

みだれ川扇状地の扇頂部に位置し、村内を村山野むらやまの川が西流する。明和七年(一七七〇)村明細帳(小山田文書)によると、東は上関山かみせきやま村へ三三町余、西は野川のがわ村へ一七町余、南は沼沢ぬまざわ村へ二二町余とある。村名は古代に観音寺という寺があったことにちなむといわれ、「三代実録」貞観七年(八六五)五月八日条に、「以出羽国観音寺預之定額」とある観音寺の擬定地である。村内間木野まぎの花水はなみず廃寺がある。字夕害ゆうがいにある野川館跡は村山野川の河岸段丘を利用して構築したもので、延文年間(一三五六―六一)二階堂氏の築造と伝え、東と北側に空堀跡が残る。最上氏領から元和八年(一六二二)山形藩領、寛文八年(一六六八)下野宇都宮藩領、天和元年(一六八一)陸奥白河藩領、寛保元年(一七四一)幕府領、安政二年(一八五五)以降松前藩領。

観音寺村
かんのんじむら

[現在地名]米子市観音寺

車尾くずも村の南、北流する日野川と法勝寺ほつしようじ川の合流点付近の西岸にある。南から北西へ東宗像ひがしむなかた丘陵が延びる。村名は中世当地に観音寺があったことによる。同寺は天正年中(一五七三―九二)杉原盛重により尾高おだか城下へ移された。藩政期の拝領高は二九六石余、本免は四ツ一分。小原氏・米子組士戸田氏の給地があった(給人所付帳)。幕末の六郡郷村生高竈付では生高二九二石余、竈数五三。「伯耆志」の高二九三石余、家数五四・人数二三六。天保三年(一八三二)には山林三町九反余。藪役銀八匁を納めていた(藩史)。南部日野川流域の村から米子城下に入る道筋の一つに位置していたので、幕末には酎酒屋・紺屋・古手屋・木綿中買・小間物屋等の諸商人がいた(安政四年「村々商人制限調」山陰歴史館蔵)

観音寺村
かんおんじむら

[現在地名]観音寺市八幡町やはたちよう一―三丁目、観音寺町 茂木町しげきまち茂西町しげにしまち駅通町えきどおりちよう殿町とのまち中央町ちゆうおうちよう柳町やなぎまち青柳町あおやぎちよう八幡町やはたちよう川原町かわらまち

観音寺居所境内のうち坂本さかもと村・上市かみいち浦・下市浦・中洲なかず浦・仮屋かりや浦などを除いた地域で、神恵じんね院観音寺・琴弾ことひき八幡宮の門前町の性格が濃い。郷帳類では観音寺村一村として記されるが、「西讃府志」には村名が記されず、鍛冶かじ分・大工だいく分・酒屋さかや町・茂木町・寺家じけ分に分けて記される。寛永国絵図では坂本郷に属し、観音寺とある。寛永一七年(一六四〇)の生駒領高覚帳では観音寺として高八二〇石余。同一八年の豊田郡酒屋免定(宇喜多家文書)では観音寺一九石とある。

観音寺村
かんのんじむら

[現在地名]橿原市観音寺町

曾我川西岸、本馬ほんま(一四二・八メートル)北麓に位置。東観音寺・西観音寺・古作こつくりの三地区からなる。東観音寺の観福かんぷく(浄土宗)には村名のもととなった観音堂があり、同寺裏山には穴塚あなづかと称する古墳がある。西観音寺の和田わだ(黄檗宗)には平安後期の観音像を安置。本馬山は「日本書紀」神武天皇三一年四月一日条の「腋上わきがみほほま丘」伝承地で、周辺に円墳がある。

観音寺村
かんのんじむら

[現在地名]津市観音寺町

安濃あのう郡北部丘陵の東南端山裾に集落があり、集落の前を美濃屋みのや川が流れる。丘陵の背後は津藩主の山荘偕楽園かいらくえんである。文禄検地帳を転記したと思われる伊勢国中御検地高帳に「観音寺」とのみある。村名は大御堂山観音寺による。中世には、国司北畠氏の家臣三谷帯刀・杉戸三右衛門が住み、杉殿垣内と称する屋敷跡があったという(伊勢一国旧城跡附)

観音寺村
かんのんじむら

[現在地名]栗東町観音寺

井上いのうえ村の南東、阿星あぼし山北西中腹に立地。金勝こんぜ川は地内谷間に源を発する。村名は「興福寺官務牒疏」にみえる観音寺が所在したことによる。寛永石高帳に村名がみえ高一五一石余、うち膳所藩領七六石余(以後幕末まで同藩領)・幕府領七四石余。慶安高辻帳では膳所藩領は田五〇石余・畑三石余・永荒二二石余、幕府領は田四九石余・畑四石余・永荒二一石余。

観音寺村
かんのんじむら

[現在地名]加美町観音寺

杉原すぎはら村の南東、杉原川中流域東岸に位置する。東背後の山腹に観音寺(現高野山真言宗)があり、村名はこの寺名による。慶長国絵図に観音寺と記載される。慶長一五年(一六一〇)の検地概要(観音寺区有文書)によれば田方八町九反余・畑方五町五反余・屋敷二反余。正保郷帳では田方九三石余・畑方七三石余、幕府領。延宝五年(一六七七)の検地帳(観音寺区有文書)によれば高一五一石余・反別一四町七反余、小物成は山手銀一八匁。天保郷帳では高一五六石余。樺坂かばさか銅山は元和六年(一六二〇)から江戸忠八郎が一一ヵ年にわたって採掘し、宝暦二年(一七五二)から勘七、天明八年(一七八八)五郎八が採掘したが、寛政一〇年(一七九八)頃から産出量が少なくなった(七十三番銀山留書・銀山旧記)

観音寺村
かんのんじむら

[現在地名]中村市古津賀こつか

佐岡さおか村の東南、石見寺いしみじ(四一〇・九メートル)の南麓、うしろ川左岸の地で、南部を中村街道が通る。地名は当地にあった寺にちなむ。観音寺の創建年代その他詳細は不明だが、永仁六年(一二九八)三月日付の大輔房心慶田畠宛行状(「蠧簡集」所収金剛福寺文書)に「本郷内中村観音寺」とみえる。本郷とは幡多はた庄本郷のことであり、この頃当地をも含めて中村とよばれていたことが知られる。

観音寺村
かんのんじむら

[現在地名]日高町観音寺

森山もりやま村の西、北東より南西に狭長な観音寺谷の開口部に位置する。村名は古代の創建と伝える天台宗寺院観音寺に由来する。中世は三方みかた庄に含まれ、明応九年(一五〇〇)六月二〇日、垣屋遠忠は「三方庄本所分内観音寺村」にある田一町を日光につこう(現八鹿町)に寄進している(日光院文書)。戦国末期頃の戌三月一三日付で下屋敷山藪等を宛行った某書状(夜久文書)は、「くわんおんし」の又四郎に宛てている。集落西方のつるヶ嶺(三九九・六メートル、俗称三方富士)の山頂付近に郭・堀切跡などの城跡がある。

観音寺村
かんのんじむら

[現在地名]和泉市観音寺町・弥生やよい町一―三丁目・和気わけ

寺門てらかど村の北から東・南にかけての槙尾まきお川左岸にある。地名は当地に浄土宗観音寺があることによる。建武五年(一三三八)七月一六日付の日根野道悟軍忠状(日根文書)に、同年五月二二日、「自堺浦没落凶徒等、引籠観音寺并箕形城之間、則馳向彼(陣)、致合戦、追落凶徒等、焼払城槨畢」とみえる。日根野氏は北朝方。また同月一九日付の田代了賢軍忠状案(田代文書)には「陸奥国々司顕家卿発向于和泉国坂本郷并観音寺、(下略)」とみえる。田代氏も北朝方。元禄九年(一六九六)の泉邦四県石高寺社旧跡并地侍伝の当村の項に「此村南山之上に古城跡あり、何時何人之居城と云事不知」とある。

観音寺村
かんのんじむら

[現在地名]弥彦村観音寺

弥彦山の南東麓にあり、南はふもと村。正保国絵図に村名がみえ、与板藩領。寛文四年(一六六四)の同藩朱印状(寛文朱印留)にも当村があげられている。元禄一一年(一六九八)幕府領。元禄郷帳では高八二石八斗余。天保一〇年(一八三九)以後与板藩領。弥彦宿の助郷を勤めた(天保七年「弥彦宿助郷村賃銭割増願」高橋文書)。当村西方雨乞あまごい山の南のさる馬場ばば峠は、弥彦宿から野積のづみ浜を通り寺泊てらどまり宿(以上現三島郡寺泊町)へ出る北国街道浜通の難所で、冬は北西の寒風が吹くため峠越えに苦労した。

観音寺村
かんのんじむら

[現在地名]加茂町大字観音寺

鹿背山かせやまの東麓に集落が集中する村で、東の平野部を石部いしぶ川が流れる。北は大野おおの村、西は観音寺峠を経て鹿背山村(現木津町)、東はさと村に続く。村名のもととなったと思われる観音寺については伝承がなく不詳であるが、「大乗院寺社雑事記」長享三年(一四八九)七月一九日条に「西大寺故長老弟子西院坊主与(中略)山城国加茂之観音寺坊主相論事出来」とあり、この頃までは観音寺があったことが確かめられる。

享保一四年(一七二九)の山城国高八郡村名帳によれば村高七三二・七九二石、うち一二・五一石が大工高で、全村津藩藤堂家の知行地で、加茂郷六ヵ村の一とある。

観音寺村
かんのんじむら

[現在地名]白子町せき

関村の北東にあり、南白亀なばき川が流れる。関村から分村したという。観音堂かんのんどう村ともみえ、天和三年(一六八三)の上総一宮領浦方観音堂村新田帳(古山家文書)では田二九町一反余・取米二二石余、畑三八町二反余・取永一〇貫八三六文。延宝七年(一六七九)観音堂村近くの北条ほうじよう幸知こうじ中里なかざと両村の萱林野があったことが知られ、すでに村名が確認できるがこの野の三分の二を当村が開発し、年貢は四年目からと決められている(飯塚家文書)

観音寺村
かんのんじむら

[現在地名]松之山町観音寺

越道こえどう川左岸にあり、南は坂下さかのした村、北は古戸ふると村。正保国絵図に高二二石余。天和三年郷帳では高二四石九斗余、反別田一町九反余・畑屋敷四反余・山林七反・青苧畑五畝余で、漆木五本、家数五。安永九年(一七八〇)新田検地では高一石四斗余。天和三年(一六八三)の松野山高覚帳(関谷哲郎氏蔵)では高二四石九斗余のすべてが観音寺の持高で、四軒は田畑不持・門前とされ、一ヵ寺と門前四戸で一村をなしていた。明治五年(一八七二)の戸数四。

観音寺村
かんのんじむら

[現在地名]山東町朝日あさひ

上夫馬かみぶま村の西、よこ山東麓に立地。慶長七年(一六〇二)の検地帳(大原観音寺文書)によれば幕府領で名請人は四二、うち観音寺にかかわる坊名名請人三〇・俗名一二、屋敷地は二四筆ですべて坊名名請人。観音寺門前の田畑(寺領田畑)を中心とする地域が村として確定されたものと考えられる。同九年彦根藩領となり(同文書)、幕末に至る。寛永石高帳では高八二石余。元禄八年大洞弁天寄進帳では人数三三ですべて寺社方。

観音寺村
かんのんじむら

[現在地名]八木町字観音寺

北を青戸あおと村、東を屋賀やが村、西を西田にしだ村に囲まれた南北に長い村。集落は村の北部に密集し、西田村集落と続いている。村名の由来について一説に村名と同じ古刹があったためといい、「丹波志桑船記」は寺跡を現住吉すみよし神社の傍らに現存する観音堂の地とする。

観音寺村
かんおんじむら

[現在地名]瀬戸町観音寺

篠岡ささおか村の南西、すな川支流の大明神だいみようじん川上流にある。永禄一〇年(一五六七)の明禅寺合戦では三村勢が当村を通っている(妙善寺合戦記)。慶長一〇年(一六〇五)備前国高物成帳(備陽記)草部くさかべ郷に村名がみえ、寛永備前国絵図では高三四〇石余。「備陽記」によれば谷間集落で、岡山京橋(現岡山市)まで道程二里一五町。田畠二五町四反余、家数五九・人数三九八、池九。

観音寺村
かんのんじむら

[現在地名]大和郡山市観音寺町

野垣内のがいと村の北に位置する。慶長郷帳では村高三三七・八二石で、幕府領(代官大久保長安)。元和元年(一六一五)郡山藩(水野勝成)領に編入され、廃藩置県に至った。のち同藩の二割半無地高増政策により村高は四二二・三一二石となる。

享保九年(一七二四)和州御領郷鑑によると反別二二町五畝二歩、家数六三(本百姓一二、水呑一一、借屋四〇)、人数二〇九(男一〇二、女一〇四、僧二、山伏一)、職人一(大工)、商人一(綿売)、牛八疋、馬一疋。

観音寺村
かんのんじむら

[現在地名]舞鶴市字観音寺

大浦半島北部になだらかに横たわるそら山を背に、その南側山腹標高約二八〇メートル辺りに集落がある。水に恵まれた山腹斜面で水田耕作が行われる。

村名は当地にある観音寺に由来する。観音寺は延暦年間(七八二―八〇六)の開創と伝える。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android