上稲田村(読み)かみいなだむら

日本歴史地名大系 「上稲田村」の解説

上稲田村
かみいなだむら

[現在地名]上越市上稲田稲田いなだ一―四丁目など

せき川右岸の村で、北は高田城下稲田町。北国街道(奥州街道)の城下への入口に位置し、稲田町・下稲田町は当村域に出来た町。またひるこ街道まき道・松之山まつのやま街道の起点でもある。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図に「戸狩分此外六方分いな田町 下」とみえ、本納五〇石二斗・縄高四九石四斗九升二合、家一〇軒・三三人。正保国絵図には稲田村とみえ高二九六石余。延宝七年(一六七九)の越州四郡高帳によると稲田村高一九六石余、ほかに新田高一〇〇石一斗余。

上稲田村
かみいなだむら

[現在地名]笠間市稲田いなだ

鍬柄くわがら山東麓、稲田川沿いにあり、北は下稲田村大郷戸おおごと村。「常陸国風土記」逸文にある大神おおがみ駅は当地に置かれたとの説があり、また「延喜式」神名帳に記される名神大社稲田神社も村内にあることから古くから開かれた地と思われる。中世は笠間氏の配下稲田氏が館を築いて支配し、建保五年(一二一七)には親鸞が当地に草庵を結んだと伝えられる。

江戸時代は笠間藩領で、「寛文朱印留」に村名が載る。茨城郡山内南郷村差出帳(石井家文書)によると慶安二年(一六四九)検地で村高七〇九・五一四石となり、寛文八年(一六六八)・延宝四年(一六七六)の新開検地で合せて一八石余を打出す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報