上田銀山跡(読み)うえだぎんざんあと

日本歴史地名大系 「上田銀山跡」の解説

上田銀山跡
うえだぎんざんあと

村域の東部、通称銀山平ぎんざんだいらと称された地域にあった。おもな部分は現在奥只見おくただみ湖の湖底水没。年不詳の上田銀山草創記(星家文書)によると、寛永一七年(一六四〇)折立おりたて村源蔵が「赤の川表上平之川辺」で岩間より白く光る物を発見し、翌一八年再び同じ場所で同様のものを見いだして持帰り、大沢おおさわ村の鍛冶藤右衛門によって銀石であることが確認された。鉱石発見の場所のあかの川は只見川の上流こいまた川・なかまた川とが合流する辺りとみられる。同一九年にはこの地域の所属などをめぐって高田藩会津藩とで国境争論が起こった。正保三年(一六四六)に裁決書(井口家文書)が出され、越後側の勝訴となって、只見川を境界とすることが確定された。

高田藩は明暦二年(一六五六)までに銀山までの街道開削などの諸準備の工事を完了し、翌三年に本格的な開発を行った。同年二月五日には銀山奉行として大門与兵衛が小出島こいでじま(現小出町)の陣屋に着任し、三月六日には折立村の山伏大蔵院に御山始めの儀式を行わせ、銀山守護神の枝折しおり峠の大明神波尾神原なみおかみはらの波尾神の支配を任せた。同時に四日町よつかまち(現小出町)諏訪神社の権太夫には銀山山神宮初尾料配分覚(田中大隅家文書)が渡され、魚沼郡内の社人五五人と折立村源蔵・大沢村藤右衛門に対し、山神の堂守の勤めを命じている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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