上瀬野村(読み)かみせのむら

日本歴史地名大系 「上瀬野村」の解説

上瀬野村
かみせのむら

[現在地名]安芸瀬野川せのがわ町上瀬野

瀬野川上・中流域に位置し、安芸郡東北端にあたる。南の賀茂郡熊野跡くまのあと村から北流する熊野川が字一貫田いつかんだで瀬野川に合流し、一帯にかなりの平地を形成する。集落はこの平地と瀬野川上流沿いに営まれる。北の八世以やせい山、東の水丸みずまる山など急峻な山に囲まれる。

建久九年(一一九八)の官宣旨案(壬生家文書)に「世能村」とあり、鎌倉時代初頭、下瀬野村域も含めて世能せの村と称されている(ただし瀬野川以南を除く)。この時世能・荒山あらやま両村が世能荒山庄として立荘されたが、承久三年(一二二一)一〇月八日付清原宣景申状(清原家文書)には「凡当御庄内地頭相交之地者、荒山村(阿)土村・下世能村等(也カ)、又号久武名者地頭名也、散在村々、此外於上(世能村カ)郡司領等者、自往昔地頭更不相交之地也」とあり、この頃世能村が上下に分れていたこと、上世能村は地頭の権限の及ばない地であったことが知られる。なお当村には国衙領もあったらしく安芸国衙領注進状(田所文書)に「上世乃正木 小」とみえる。中世を通じて阿曾沼氏の治下にあり、天正七年(一五七九)「上世能之内弐貫目」が家臣野村氏に宛行われている(同年一一月吉日付「阿曾沼元秀宛行状」野村文書)

元和五年(一六一九)安芸国知行帳には五六五石二斗八合分の上瀬野村と、一〇〇石分の上瀬野村があり、同一村名で二ヵ村とされていたが、のち一村とされた(広島藩御覚書帖)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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