上愛子村(読み)かみあやしむら

日本歴史地名大系 「上愛子村」の解説

上愛子村
かみあやしむら

[現在地名]宮城町上愛子

下愛子村の西に続く作並さくなみ街道の街村で、下愛子村とともに宿駅を形成。村の北側を街道と平行して広瀬川が東流。名取郡長袋ながふくろ宿(現秋保町)への道もあり同所へ二里一三町余(安永風土記)正保郷帳に村名がみえ、田八一貫七一〇文・畑三二貫五〇九文、旱損柴山注記がある。ほかに新田二貫八一文。「安永風土記」では田八四貫四二〇文・畑三五貫九六九文(うち茶畑八貫三三一文)、うち蔵入二三貫五八〇文・給所九六貫八〇九文。二九ヵ銘の御林があり、代数有之百姓赤生木あこうぎ屋敷孫右衛門・鞍打くらうち屋敷正蔵・板颪いたおろし屋敷藤右衛門・岩本いわもと屋敷利左衛門が御山守・御竹藪守を勤めた。当村は給所が多いがとくに国分氏以来の森田家は、ここに在郷屋敷を設け、家中を配していた。「封内風土記」に「森田司馬清元家僕百八十九口、馬二十一」とある。森田氏は「伊達世臣家譜」によると初め郷六と称し、郷六ごうろく館に住んでいた。五代外記之助重元のとき、伊達政宗に属し、郷六村より上愛子村二軒在家にけんざいけに移住した(→郷六城跡

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報