三崎庄(読み)みさきのしよう

日本歴史地名大系 「三崎庄」の解説

三崎庄
みさきのしよう

荘内しようない半島一帯に比定される。寛喜二年(一二三〇)のものと推定される六月一八日の某惟宗請文(「民経記」同三年五月記紙背文書)に「法成寺御領三崎御庄」とあり、当庄に課せられた伊勢神宮役夫工米について相論があったようで、収納して造宮使に渡すことを約束している。正応六年(一二九三)の九条家文庫文書目録(九条家文書)に「一合(中略)三崎 惣目六」とある。嘉元三年(一三〇五)と推定される摂渡庄目録(同文書)に、京都法成ほうじよう寺領の一つとして「讃岐国 三崎庄塩浜 田卅町 年貢油五斗」とある。

三崎庄
みさきのしよう

和名抄」の御浦みうらみさき郷を中心に成立した荘園。すでに一一世紀には三条天皇の皇女冷泉宮領の荘園として成立し、のちに藤原氏摂関家、そのなかでも近衛家の所領として伝えられ、請所となっている(建長五年一一月二一日「近衛家所領目録」県史一)。至徳二年(一三八五)一二月五日の将軍足利義満御教書(県史三)によれば、近衛基嗣から京都楞伽りようか寺の所領として寄進されていた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報