三俣院(読み)みまたいん

日本歴史地名大系 「三俣院」の解説

三俣院
みまたいん

鎌倉時代からみえる院名。現在の高城たかじよう町・山之口やまのくち町・三股みまた町および都城市の一部に比定される。内部は三俣院北方・三俣院南方に分れ、明確な境界は不明だが、現在の高城町石山いしやま大井手おおいでは北方に属し、山之口町山之口には伊豆走湯そうとう(現静岡県熱海市の伊豆山神社)を勧請したと伝える走湯はしりゆ権現(現走湯神社)があり、同地の同社別当寺の修善しゆぜん寺は南方に属していた。

〔鎌倉―室町時代〕

建久図田帳に島津庄の一円庄の一つとして諸県郡内の「三俣院七百丁」がみえ、地頭は島津忠久であった。なお室町期の書写と思われる建久図田帳(長谷場文書)には、三俣院七〇〇町のほかに島津庄日向方本庄分田数のうちに「三俣院千町」が記される。日向の在庁官人系国人の土持氏の系譜(年未詳「垂水新兵衛系図写」予章館文書)には、貞応四年(嘉禄元年、一二二五)源頼朝が土持栄妙に飫肥おび・三俣・臼杵、財部たからべ(現高鍋町)を与えたとの伝承が載る。文永一二年(一二七五)三月一八日、三俣院定福寺に願主鏡玄により梵鐘が施入されているが(「石山寺鐘銘写」三俣院記)、世俗との関係は不明。

北条氏滅亡後の建武年間(一三三四―三八)、三俣院では高城(現高城町)などに南朝方の肝付兼重が拠点を構えた。これに対し、建武三年四月に那賀(日下部)盛連は三俣院を攻め(同年五月一六日「日下部盛連軍忠状」郡司文書)、同年一二月五日には、三俣院の在地領主福王寺真重らとともに大隅の禰寝氏や島津庄なん(現都城市)に拠点をもつ長谷場久純らが、北朝方の日向国大将畠山直顕とともに肝付兼重の拠る高城攻撃に加わっている(同四年三月一〇日「福王寺真重軍忠状写」堂領文書、同年四月二九日「長谷場久純軍忠状」長谷場文書など)。暦応四年(一三四一)一二月二〇日の畠山直顕軍忠注進状(池端文書)にはこの間の直顕に与力した禰寝氏一族の従軍経過がみえ、建武三年一二月一八日に兼重との合戦、翌四年一月一〇日には石山城合戦、そして兼重本城の三俣院石山いしやま(現高城町)を落城させたと記されている。しかしその後も肝付氏らは抵抗を続けたため、建武五年閏七月二日に畠山直顕は薩摩の渋谷重名に三俣院への発向を命じており(「畠山直顕書下」寺尾文書)、暦応二年四月には大友宗雄が兼重攻めのため三俣院大井手の陣に直顕方として加わっている(同年七月八日「大友宗雄軍忠状」志賀文書)。現北諸県郡地域の地誌である近世の「三俣院記」には、高城が三俣院に属し、南北朝初期に南朝方の肝付兼重が居城して三俣八郎と名乗ったことが記されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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