七ッ釜村(読み)ななつがまむら

日本歴史地名大系 「七ッ釜村」の解説

七ッ釜村
ななつがまむら

[現在地名]西海町七釜郷ななつがまごう

中浦なかうら村の南に位置し、伊佐いさうら川が流れて伊佐ノ浦に、その南で柚木ゆすのき川が四釜しかまの浦にそれぞれ注ぐ。入江の西に南串なぐし島があり、呼子よぶこ瀬戸を隔てておお島・てら島がある。鳥崎とりさき川後山かわごやま・四釜・久保里くぼりがある。江戸時代は大村領の外海そとめに属する。地名は当地に定住した海民の竈数によるといわれる。「大村郷村記」に多以良たいら(現大瀬戸町)のうち七ッ釜浦村とあり、同村の小村で、安永年間(一七七二―八一)に分立したとされるが(大村郷村記)、中浦村のうちであったともいう(郡村誌)。寛永一六年(一六三九)キリシタン詮索の申渡しでは「七ツ釜」の問が署名している(「切支丹法度書」大村見聞集)。正保二年(一六四五)筑前福岡藩五代藩主黒田宣政が長崎より「七釜」を経て帰城している(吉田家伝録)正保国絵図では七ッ釜は遠浅で入約一〇町、大小の船二〇艘ほどをつなぐことができ、瀬戸せと(現大瀬戸町)まで二里の船路であった(大村見聞集)。慶安二年(一六四九)の肥前国道法帳に船路として七ッ釜とみえ、長崎湊面高おもだか浦方面と結ばれていた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報