一部村(読み)いちぶむら

日本歴史地名大系 「一部村」の解説

一部村
いちぶむら

[現在地名]生月町壱部免いちぶめん壱部浦いちぶうら

生月村の北部さとの北に位置し、三方は海に臨む。南東部にばん岳があり、北方には浜脇はまのわき拝野おがみの鳥瀬とりせ鼻・けん崎・鞍馬くらま鼻などがある。一五八七年(天正一五年)バテレン追放令の頃、山田やまだ教会から一里のイチブに教会があり、ここはドン・ジェロニモ(籠手田安一)の娘婿ドン・バルタザル(一部正治)の領内であった。都のセミナリオ(神学校)が司祭や修道士とともに移転してきたが、寒気が厳しく、交通も不便で必需品も不足がちなため、多くの者がいろいろな危険な病気に悩まされることになったという。慶長四年(一五九九)松浦家のキリシタン政策の転換に伴い、籠手田安一・一部正治はともに生月を脱出している(同年一〇月一〇日「ヴァリニャーノ日本年報」)

一部村
いちぶむら

[現在地名]牟田青葉町あおばまち合成町ごうせいまち末広町すえひろまち新勝立町しんかつだちまち一―二丁目・同五―六丁目・天道町てんどうまち早鐘町はやがねまち馬渡町まわたりまち米生町よねおまち一丁目

下里さがり村の南東にあり、北は稲荷とうか村。諏訪すわ川中流右岸の丘陵部に位置する。室町時代中頃のものと推定される年月日未詳後欠の三池南郷米生上村一分一方符方検注数田粮米切符(太宰府天満宮文書/大宰府・太宰府天満宮史料一五)にみえる「米生上村一分」に由来する村名と思われる。天正一五年(一五八七)高橋統増(立花直次)領となり、文禄四年(一五九五)の知行方目録(三池立花家文書)には「うす井・一武」とみえ、高九五九石余。

一部村
いちぶむら

[現在地名]荒尾市一部・桜山さくらやま町一―四丁目

西は有明海に面し、うら川中流を挟んで東の向一部むこういちぶ台地一帯と西の増永ますなが台地からなり、東は川登かわのぼり村・菰屋こもや村、南は蔵満くらみつ村、北は増永村に接する。野原八幡宮祭事簿(野原八幡宮文書)によると、野原のばら八幡宮大祭の小行事を勤めた三ヵ村の一つで、文永二年(一二六五)の項の「国方一分弥藤別当」をはじめ当村住人の名が多数みえ、応仁二年(一四六八)の項には「小行事一分村神太夫役内田石見守勤候」と村名が付けられている。天文一五年(一五四六)の浄光寺鐘追銘(社寺古鐘之銘)に願主として「野原庄一部村原之対馬藤原種満同氏女」とある。

一部村
いちぶむら

[現在地名]米子市一部

水浜みずはま村の北にある。正保国絵図には市部村とある。拝領高は三九〇石余、本免四ツ六分。倉吉荒尾氏の給地であった(給人所付帳)幕末の六郡郷村生高竈付では生高四四三石余、竈数三六。「伯耆志」の高四四四石余、家数三六・人数一四八。藪役銀一八匁六分を課されていた(藩史)。産土神は日吉津ひえづ(現日吉津村)の大神宮(現蚊屋島神社)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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