イベリア半島(読み)イベリアはんとう(英語表記)Península Ibérica

精選版 日本国語大辞典 「イベリア半島」の意味・読み・例文・類語

イベリア‐はんとう ‥ハンタウ【イベリア半島】

(イベリアはIberia) ヨーロッパ大陸の西南端に突き出し、地中海と大西洋を分ける半島。大半がスペイン領で、ポルトガル、アンドラ、イギリス領ジブラルタルがある。

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デジタル大辞泉 「イベリア半島」の意味・読み・例文・類語

イベリア‐はんとう〔‐ハンタウ〕【イベリア半島】

Iberia》ヨーロッパ大陸南西部の半島。地中海大西洋を分ける。スペインポルトガルがある。

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改訂新版 世界大百科事典 「イベリア半島」の意味・わかりやすい解説

イベリア半島 (イベリアはんとう)
Península Ibérica

ヨーロッパの南西端にある半島。東西約1100km,南北約1000kmのほぼ方形をなし,総面積58万1353km2。北端のエスタカ・デ・バーレス岬と南端のタリファ岬(ともにスペイン)は,それぞれ北海道の中央部,関東地方の霞ヶ浦と同緯度にあたる。北および西を大西洋に,南と東を地中海に囲まれ,半島の付け根,北東部は幅約435kmにわたり,ピレネー山脈によってヨーロッパ大陸部と画されている。南西端では最狭部14kmのジブラルタル海峡をはさんでアフリカ大陸と対するが,同海峡は,ヨーロッパへのイスラム文明伝播の歴史的回路の一つであった。総面積の84.7%をスペインが,15.2%をポルトガルが,残りを英領ジブラルタルとピレネー山脈中のアンドラとが占める。〈イベリア〉の名は,古代ギリシア時代にギリシア人が半島先住民をイベレスと呼称したことに由来する。

半島の大部分は先カンブリア紀に形成されたが,半島の基盤となったイベリア中央山塊は,古生代後期のヘルシニア造山運動により形成された。ヘルシニア造山運動の営力の軸は北西から南東方向に向き,エブロ山塊,カタルニャ・バレアレス山塊,ベティカ・リフ山塊を同時に形成している。中生代の造陸運動,浸食作用,海面変化を経て,今日の半島の基本的な構造を形成したのは,新生代のアルプス造山運動である。このアルプス造山運動の営力に対し,上記の山塊は,エブロ山塊やベティカ・リフ山塊のように沈下して,エブロ低地やジブラルタル海峡を形成したり,あるいはイベリア中央山塊のように全体的に隆起したり,その対応は異なっている。イベリア中央山塊は隆起により西に傾斜しただけでなく,さらに山塊の中央部の弱体であった破砕帯には北東から南西方向に中央山系,トレド山地が隆起し,この中央山系の南北に北メセタ(旧カスティリャ)と南メセタ(新カスティリャ)の2盆地が形成された。イベリア中央山塊の北部周辺部は南方方向の隆起と陥没により複雑な地形を生み出したが,南部周辺部では断層による大陥没地帯が生じ,南メセタの南縁を形成し,グアダルキビル断層として知られる。これらの地殻運動に加え,アルプス造山運動は,イベリア中央山塊の周辺を縁どるような,北部のカンタブリア山脈,バスク山地,北東部のピレネー山脈,南部のスブ・ベティカ山系を形成した。

 地質はその地史に対応して大きくケイ(珪)土層,石灰層,粘土層の代表的な三つの層からなる。ケイ土層はとくに花コウ岩および変成岩が多く,古生層の基盤をなしていたもので,カレドニア造山運動によって形成された山塊が露出している地域にみられる。半島の西部に広くひろがり,ガリシア,ポルトガル北部,メセタ,中央山系に分布している。石灰質の地質は,大部分中生代の海成層からなり,主として半島東部に分布するが,代表的な地域は,スペインのピレネー山脈,バスク山地,カンタブリア山脈東部の山脈群,およびイベリア山系,ベティカ山系で,ポルトガルではエストレマドゥラを除き,相対的に希薄である。粘土質の地質は,アルプス造山運動期に形成された地形に対応し,陸成層および海成層からなっている。北部メセタの中央部および東部,南部メセタの東部に分布する堆積層と周辺部地溝谷のエブロ川,グアダルキビル川,タホ・サド川の沖積平野の堆積層が代表的な五つの地域である。

基本的な地形配置は,約21万km2のメセタを骨格に,その周辺を縁どるトラス・オス・モンテ,レオン山地,カンタブリア山脈,イベリア山脈,モレナ山脈の周辺山脈群,外縁部をとりかこむバスク山地,ピレネー山脈,カタルニャ山脈,ベティカ山脈の外縁部山脈群,および二つの山脈群にはさまれたエブロ低地,グアダルキビル低地,タホ・サド低地の三つの低地からなっている。メセタは中央山地によって南北に分けられ,北部メセタは平均標高700~800mに達するのに比し,南部メセタは600~700mでいくぶん低い。またメセタは西に傾斜しており,スペインのエストレマドゥラ,ポルトガルのアレンテージョでは200mにまで標高を減じている。広大な高原でありしかも周囲を2000~3000mの山脈に囲まれたメセタは,他の地中海に面した代表的な半島,イタリア半島やバルカン半島と異なり,大陸的な特徴を与えている。主要河川のうちドゥエロ川,タホ川,グアディアナ川はメセタの地形を反映して西流している。同様にグアダルキビル川も構造谷を西流し,流域はアンダルシアの代表的な農業地帯となっている。エブロ川はピレネー山脈に発し南東流して地中海に注ぎ,上流から中流にかけて水力発電の中枢地域を形成している。

 海洋および地形配置から〈湿潤イベリア〉と〈乾燥イベリア〉の二つの対照的な気候区に区分できる。北部山脈は,大西洋からの湿潤な大気が流入する壁となり,ピレネー山脈から北部山脈の北麓に沿って描かれる年間降雨量800mm線がほぼこの二つの区分と一致しており,ブドウ栽培の北限でもある。最多雨地域は〈湿潤イベリア〉のガリシアで,雨は秋に最も多く,年間3000mmに達する所もある。〈乾燥イベリア〉では降雨は春と秋に多いが,山間部を除けば300~600mmにすぎない。サハラからの季節風の影響を受けるアルメリアでは200mmで最も乾燥した地域となっている。さらに気候区分をみると,メセタの大陸的な寒冷気候,周辺部山脈山間地の湿潤な寒冷気候,大西洋の影響を受けた〈湿潤イベリア〉の冷涼な海洋性気候,地中海沿岸の地中海式気候に大別できる。かんきつ類,オリーブの北限は,地中海式気候の及ぶ範囲と対応している。またアンダルシア東部沿岸は亜熱帯性気候を呈し,サトウキビ,バナナの北限となっている。最低気温はメセタの西部で-24℃を,最高気温はアンダルシアのセビリャ北東部で45℃を記録している。
執筆者:

歴史と地理は通常密接な相関関係にあり,イベリア半島もその例外ではない。まずここはアフリカとヨーロッパを結ぶ陸路と,地中海から大西洋へ続く海路との交点であり,古来多くの民族と文化の交流と融合とにかっこうな場を提供してきた。そのために外来勢力の到来がしばしば歴史の節目を作るほどだった。次にイベリアはその周囲に興亡する文明の中心地から見て終始辺境だった。その結果,同一文明圏の中にあってなおここには中枢部とは趣を多分に異にした外縁世界が生まれた。以上の2点はイベリア史のいわば常数である。

イベリア史では先史時代から711年の西ゴート王国の崩壊までを古代と呼びうる。50万年以上も続く旧石器時代について知るところはごくわずかだが,その中で約1万5000年前にアルタミラをはじめ半島北部カンタブリア一帯の洞窟の奥深い壁や天井に多彩色で描かれた多くの動物画は,すでに世界的に知られる。前4500年ころ,地中海東部から新石器文化の波が及ぶと,イベリアにも大きな変化が現れ,集落が生まれ,農耕と家畜の飼育が始まり,土器が作られやがて青銅器も出現した。ドルメンやメンヒルと呼ばれる巨石記念物が各地につくられ,今日なお学問的に未解明の問題を残すバスク人の遠い祖先が,どこからともなく移住してきた。

 前1000年,イベリア史は再び大きな変革期を迎える。ピレネー経由でケルト人が鉄器を携えて渡来し,後にギリシア人がイベレスと呼んだ半島先住民と混血した。同じ頃,南部沿岸には東方からフェニキア人が特にスズ(錫)を求めて来航,今日のカディスやマラガの前身を築いた。さらに少し遅れてギリシア人も東部沿岸に進出してきた。彼ら地中海世界の先進民族は文字,貨幣,奴隷制,冶金技術等を伝え,これに触発されてまもなくイベリア初の土着文化が開花し,南部にはタルテソスという最初の土着国家まで出現した。文字史料が生まれ,イベリアは有史時代に入った。

 前3世紀末,イベリアはカルタゴとローマの係争地となった。勝ったローマはその後200年を費やして半島を制圧,さらに500年間支配した。この間にその大部分は急速にローマ化され,都市と道路,次いでラテン語とローマ法の下で住民の一体感と社会の統一がはぐくまれた。後にキリスト教がこれをさらに補強した。イベリアのローマ化は皇帝トラヤヌスや哲人セネカらを輩出させたほど深かった。

 ローマが衰えると,ゲルマンの一派西ゴート人が6世紀初めに半島の支配権を握った。このときキリスト教会は文化,宗教,法律を異にする西ゴート人と従来からの半島住民とを仲介,両者の融合を図った。その結果,ローマが残した統一のうえに西ゴートの王権が統治する形で半島初の独立国家が誕生した(西ゴート王国)。しかし,これも地中海世界の退潮という趨勢には抗しえず,また政治権力の分裂や貧富の差の拡大等の内因から衰微していき,711年に北アフリカから侵入したイスラム勢力の前に瓦解した。それでも統一国家の体験だけはひとつの理想として後世長く人々の記憶に生き続けた。

イスラム教徒は711年から1492年までイベリアの一部を支配した。この間キリスト教徒との間に政治権力をめぐる闘争が持続し,この情況がそのままイベリアの中世をなす。

 イスラム教徒支配下の半島部分をアル・アンダルスという。それは特に東部から南部にかけてしっかりと根を下ろし,首都はコルドバに置かれた。最初の300年間,アル・アンダルスは後ウマイヤ朝の下に統一を保ち,活発な商業,多様な手工業と農業,豊かな人口,創造力あふれる文化等をもって西ヨーロッパ随一の繁栄を誇った。反面,社会は融合を欠き,政治は専制の弊に陥って,11世紀中葉以降は離合集散を繰り返しながらしだいにその版図を狭めていった。イスラム教徒のイベリア支配は初めから不完全だったし,アル・アンダルスでは内紛が続いた。これに乗じて征服後まもなく半島北辺の山岳部の住民はコルドバの支配を離れて反イスラムの旗の下に独自の社会を営み,時と共にアストゥリアス,ナバラ,カタルニャ等のキリスト教国を形成していった。

 後ウマイヤ朝崩壊(1031)後,キリスト教徒は攻勢に転じ,新興のカスティリャとアラゴンが国土回復戦争レコンキスタ)の先頭に立った。この過程でポルトガルが独立国家となった。これに対してイスラム教徒は北アフリカからの援軍を頼んで大反攻を試みたものの,同じく十字軍時代の西ヨーロッパを後ろ楯にしたキリスト教スペイン諸国がラス・ナーバス・デ・トローサの戦(1212)に勝って,後の歴史を決めた。13世紀中葉にはアル・アンダルスはグラナダ1国を残すのみとなる一方,戦勝国のひとつアラゴンは次の活路を求めて地中海に乗り出していった。

 15世紀後半,王権と貴族の抗争や農民暴動,また反ユダヤ運動の激化等によりカスティリャとアラゴンは共に混沌とした情況にあった。が,たまたま両国の王位継承者イサベルとフェルナンドが結婚,次いで即位すると,事態は一転して収拾に向かい,その過程でグラナダが征服されて約800年に及ぶイスラム教徒との抗争が終結した。同時にこれまた予期しない形で新世界(インディアス)への展望が開ける一方,フェルナンドの卓越した外交によって新生スペインは急速にヨーロッパの列強に伍していった。またポルトガルは北アフリカのセウタ攻略(1415)を境に,大西洋とアフリカ西岸にその版図を広げていった。

1516年から1700年までスペインはオーストリア起源のハプスブルク家の支配下に劇的な浮沈の一時代を画した。最初の王カルロス1世の領地はスペインのほかにハプスブルク家の領地,ブルゴーニュ公領,アラゴン王家の領地を含み,さらに新世界が加わり,そのうえ神聖ローマ皇帝カール5世として名目的にせよドイツ諸侯に君臨した。カルロスの死後,ハプスブルク体制はスペインとオーストリアに二分されるが,前者には1580年から1640年までポルトガルがその海外領土と共に加わり,文字通り日の没することのない史上初の地球的広がりを持つ帝国(スペイン帝国)が生まれた。

 カルロスが即位してまもなく,西ヨーロッパは宗教改革によって中世以来の精神的統一を失う一方,東のオスマン帝国からの重大な脅威にさらされていた。カルロスは皇帝としての使命感から西ヨーロッパの統一を復興し,併せてトルコの外圧を退けることに尽力した。そしてフェリペ2世以降の歴代の王もカトリック・ヨーロッパの防衛とハプスブルク体制の護持を政策の最終目標に据えた。それは当然ながらスペインの国益を超えた汎ヨーロッパ的規模の政策だった。

 しかし,こうしたハプスブルク体制のもっとも重要な支えとなったのはスペイン,もっと厳密に言えばカスティリャだった。カルロスの即位後まもなく起きたコムネロスの反乱が失敗して以来,カスティリャは王権の動きを抑止するすべを失った一方,グラナダの征服で息を吹き返したスペイン人の十字軍精神はカルロスとその後継者の姿勢に強く共鳴した。また新世界の征服と開発が進むにつれてその量を増していった金銀の流入が,彼らの財政感覚を麻痺させた。結果は止まるところを知らない戦争であり,その裏ではインフレと労働蔑視の風潮からカスティリャ経済は破綻への道を急いだ。

 トルコの脅威はレパントの海戦(1571)での勝利で一応退けられた。だが,プロテスタント問題は逆に悪化の一途をたどった。カトリック防衛の覇者を任じるフェリペ2世はフランスのユグノー戦争に積極的に介入し,カルビニズムナショナリズムが結びついて勃発したフランドル戦争では妥協を忘れた。さらにイギリスでのカトリック復興をねらうあまり,イギリス国民の激しい反感を引き起こし,1580年以降両国の関係は急速に険しくなっていった。このようなフェリペ2世の積極的姿勢はときとしてローマ教皇庁からさえも不信の眼で見られた。

 無敵艦隊の敗北(1588)は,スペイン人に大きな動揺を与えた。そして17世紀前半にはカスティリャの極度の疲弊と相まって,ダウンズの海戦(1639)とロクロアの陸戦(1643)の2戦で,ついにスペインの軍事的優位は崩れ去った。国外での威信失墜はそのまま国内にはねかえり,カタルニャとポルトガルがオリバレス伯公爵の強引な中央集権化政策に反旗を翻し,ポルトガルは再び独立してしまった。いまやスペインはフランス王ルイ14世の膨張政策のかっこうの餌食でしかなかった。

 戦乱の16~17世紀はスペイン史の〈黄金世紀〉と呼ばれるが,それはヨーロッパ最強の軍事力を誇った事実にではなく,この間にスペイン文化が発揮した未曾有の創造力とその所産に基づいている。16世紀の前半,エラスムスの主張に沿った知的で穏健な開明派路線が,緊迫する政治社会情勢の前に沈黙を強いられると,代わって民衆の熱狂的宗教感情が絵画,演劇,小説,建築等にまたとない自己表現のすべを見いだした。グレコ,カルデロン,ローペ・デ・ベガ,セルバンテスに代表されるこの時代のスペイン文化の宗教性と民衆性は,〈偉大なる世紀〉のフランス文化とは際だった対照をなしている。

 1700年10月3日,すでに死の床にあったスペイン・ハプスブルク最後のカルロス2世は,ルイ14世の孫にあたるブルボン家のフィリップを自分の後継者に指名する旨の遺言書に署名した。それは今なお世界各地に広がるスペイン領の保全をブルボン家の力に頼って達成しようという願いが込められた選択結果であり,近親結婚の弊害を一身にまとった病弱で不幸な同王がスペインのためになしえた最後の奉仕でもあった。
執筆者:

封建制は西ゴート時代からすでに展開していた。それは同時代のメロビング朝の封建制と比肩できるものであったが,8世紀初頭のイスラム勢力の侵入により,北西フランス型の封建制への道は決定的にはばまれた。例外はスペイン辺境伯領として9世紀初頭フランク王権の統制下に組み入れられたカタルニャ地方のみであった。

 イスラムに征服された土地に対する再征服,再植民運動(再征服した土地への入植運動)の最大の担い手であったカスティリャ地方における封建制は社会・経済的視点からみたとき,次のような特色をもつ。(1)コリャソス(ソラリエゴス)と称される農奴身分が社会層の主要部分を構成していたにしても(a)初期中世において,またイスラムとのフロンティア地域には常に自有地をもつ自由小土地所有者が広範囲に生み出された。(b)中世全体を通じて移動の自由,領主選択権をもつベエトリーアス農民および奴隷(とりわけイスラム教徒奴隷)が存続しつづけた。(2)元来は騎士としての装備を自給できた自由人農民上層にすぎなかった村落騎士(民衆騎士)は中世末,伝統的な下級貴族身分であるインファンソネスと結びつき,イダルゴ層という新しい下級貴族・都市貴族身分を形成していく一方,都市部においては一般に,市民層の形成が希薄であった。(3)再征服運動の進展に伴い,モリスコ,ユダヤ人など多くの異教徒をかかえることになった。(4)再征服運動の結果として広大な王領地が形成された反面,イムニダー権(インムニテート)を有する貴族大所領は概して未発達であった。それが形成されるのはアンダルシア地方が再征服される13世紀後半以降を待たねばならない。(5)再征服,再植民運動推進のための軍事・経済上の配慮から,主要都市は一般に王権の直轄下に置かれた。(6)11世紀後半以降,サンチアゴ・デ・コンポステラへの巡礼路をはじめとして各地に都市が成立し,またパーリアス制pariasによって大量のイスラム貨幣が流入したにもかかわらず,農業生産性の低さ,市場の狭隘性などのため,原毛を中心とする原材料の輸出と手工業製品の輸入を特色とする植民地型の経済構造を示した。

 ちなみに,ここで触れたパーリアス制とは,イスラム諸王国への軍事的保護,援助の代償としてイスラム側よりキリスト教国家に支払われた軍事貢納金制度をいう。それは11世紀以降におけるキリスト教諸王国の軍事的優位を前提として生み出されたものであり,キリスト教国家の本格的国土回復運動のための過渡的制度であった。

 また法制史的視点からみると次のようである。(1)ベネフィシオ(ベネフィキウム)と家士制度との結びつきが制度的に不完全であり,13世紀に至るまで,原則として官職等のベネフィシオが世襲化されなかった。加えて,国王はイラ・レギス(国王の怒り)制によって,たとえばエル・シッドの場合にみられるように,誠実義務違反とは無関係にベネフィシオを国王の手に取り戻すことができた。(2)高級裁判権をも含むイムニダー権,貨幣鋳造権,市場開設権といったレガリーア権(レガーリエン)が譲渡された例は多くはない。(3)封主,家士双方は自らの意志に従い,家士関係を自由に締結,解消することができた。このような封建制の構造はナバラ,アラゴン地方においてもほぼ同様であった。

 他方,カタルニャ地方の封建制は基本的には北西フランス型の構造を示している。法制史を例にとれば,それは以下のような特色をもつ。(1)ベネフィシオと家士制度とが制度的に結合し,官職等のベネフィシオも世襲化された。(2)城塞を拠点として一円的領域裁判権を行使する領主権力が各地に生み出された。(3)最高封主としてのバルセロナ伯を頂点とし,全貴族層を包含した密度の濃い封主・家士関係が成立した。バルセロナを中心とする商品・貨幣経済の発展がその背景にあることは言うまでもない。このようにスペイン封建制はカスティリャとカタルニャという二つの異なった封建制を軸に構築されていたのである。
スペイン →ポルトガル
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「イベリア半島」の意味・わかりやすい解説

イベリア半島
いべりあはんとう
Iberian Peninsula

ヨーロッパ大陸南西端、地中海の入口をふさぐような形で大西洋に突出している半島。幅14キロメートルのジブラルタル海峡を隔ててアフリカ大陸に対する。スペイン語名イベリカ半島Península Ibérica。半島の付け根の北東部は幅約430キロメートルの地峡部をなし、3000メートル前後の高峻(こうしゅん)なピレネー山脈が連なり、西ヨーロッパと半島部とを分けている。ほぼ四角形で、面積58万0336平方キロメートル。ヨーロッパ第二の大きな半島で、その約5分の4をスペインが、西部の5分の1をポルトガルが占め、小国アンドラがピレネー山中にあり、南端にイギリス直轄領のジブラルタルがある。半島の大部分は、全体に西南西に緩く傾いた平均標高600~750メートルの広大なメセタ(スペイン語で卓状地の意)とよばれる高原状の地形で、その周囲を2000~3000メートルを超える山脈が取り囲んでいる。つまり、半島としてはきわめて大陸的な地形である。メセタはカンブリア紀から石炭紀にかけての古期岩石からなり、その中央を高度2000~2500メートル前後の中央山系がほぼ東西に走り、北のカスティーリャ・イ・レオンと南のカスティーリャ・ラ・マンチャ両盆地に二分している。ドーロ川、タホ川など多くの河川はほぼ西流して大西洋に注ぐ。メセタの北縁はカンタブリカ山脈によって限られ、ビスケー湾に沿って東西に連なる。南縁はシエラ・モレナ山脈で、大断層によって生じたグアダルキビル川の河谷に急崖(きゅうがい)をもって臨み、その南のシエラ・ネバダ山脈を含むベティカ山系に対している。同様に北東縁はイベリカ山脈によって限られ、南東流するエブロ川の河谷に臨んでピレネー山脈に対している。

 地形および海洋の影響で、気候は非常に大きな地域差を示す。北部のビスケー湾岸から北西部にかけては、通年降雨のある西岸海洋性気候で湿潤温帯林に覆われる。これに対してメセタおよびエブロ低地では年降水量300~500ミリメートルで大陸性気候を示し、夏季の乾燥が激しい。ステップ(短草草原)に似た植生で、しばしば荒れ地と小麦畑とが交錯している。また、南部地中海岸からカタルーニャにかけては地中海性気候で、さらに乾燥しているが、灌漑(かんがい)により果樹園芸農業がみられる。高山地域では冬に降雪があり、ピレネー山脈やシエラ・ネバダ山脈の高所には万年雪がみられる。

[田辺 裕・滝沢由美子]

歴史

イベリア半島はヨーロッパとアフリカの通路にあたっており、さまざまな民族がこの地に居住した。ケルト・イベリア人(ケルト・イベロ人)がスペイン人の根幹であるが、彼らの移住以前からバスク人がピレネー山脈地方にいた。地中海沿岸地方では早くから諸民族との交通が発達し、ギリシア人やフェニキア人の植民市ができた。とくにフェニキア人は半島中部まで支配した。紀元前3世紀からローマ人がこの地に入り、全半島はローマ帝国の属州となった。帝国の支配のもとでキリスト教が広まり、ラテン語は先住民のことばと混交した。5世紀に西ゴート人が侵入し、半島の大部分を支配した。8世紀に、アラビア人、モロ人(ムーア人)からなるイスラム教徒が西ゴート人を滅ぼして以後、15世紀末までイスラムの支配が続いた。同時にキリスト教徒のスペイン人やポルトガル人によるレコンキスタ(国土回復戦争)が始まり、中世のイベリア半島はイスラム文化の繁栄とレコンキスタの南進によって特徴づけられる。1492年イスラムの最後の根拠地グラナダが陥落して、レコンキスタは成功した。この間1143年にポルトガルはカスティーリャから自立、ポルトガル王国を建国した。

 グラナダの陥落と同じ1492年に、コロンブスは西インド諸島に到着し、以後スペイン、ポルトガルは「新大陸」とよばれたアメリカに広大な領土を獲得し、16、17世紀には「黄金の世紀」とよばれる繁栄を出現させた。1588年スペインのアルマダ(無敵艦隊)がイギリスに敗北したことは、スペインの没落のきっかけとなり、スペイン帝国と社会の衰退が始まった。近代資本主義の発展が遅れ、社会が前近代的な諸関係を克服できなかったイベリア半島は、近代ヨーロッパの周辺にとどまっていた。ようやく20世紀になって社会の矛盾はスペイン内戦として爆発し、イベリア半島は世界の注目を集めた。フランコとサラザールという独裁者の死、植民地の独立運動の高まり、高度経済成長に伴う労働運動をはじめとする民主化を求める動きのなか経済危機を克服して、1982年スペインのNATO(ナトー)(北大西洋条約機構)加盟、86年の両国のEC(ヨーロッパ共同体、現ヨーロッパ連合、EU)加盟によってヨーロッパ統合の重要な役割を果たすようになった。

[斉藤 孝]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「イベリア半島」の意味・わかりやすい解説

イベリア半島
イベリアはんとう
Iberian Peninsula

ヨーロッパ南西部の,スペインポルトガルが存在する半島。名称は古代ギリシア人がこの地の住民を,おそらくこの半島でタホ川に次ぎ 2番目に長い河川エブロ川(ラテン語でイベルス)にちなんで,イベリア人と呼んだことに由来する。半島の北東にあるピレネー山脈が,ヨーロッパの他地域との境界をなしている。南はジブラルタル沖の細いジブラルタル海峡を挟んで北アフリカに,北,西,南西の沿岸部は大西洋に,南と東の沿岸部は地中海に面している。半島の西端にはポルトガルの首都リスボンがあり,その西方にあるロカ岬はヨーロッパ大陸の最西端に位置する。半島の大部分はメセタと呼ばれる平均標高約 660mの台地状の地塊で,ほぼ中央にスペインの首都マドリードがある。主要河川のタホ川,グアディアナ川ドーロ川グアダルキビル川などが西流し,各地に盆地を形成。中央をグアダラマ山脈グレドス山脈などが東西に横切り,北部はカンタブリカ山脈,南部はモレナ山脈ネバダ山脈などが走る。気候は地域差が大きく,北部は西岸海洋性気候,東岸,南岸は温帯冬雨気候(地中海式気候),内陸部は大陸性気候で,北部を除いて全体に降雨は少ない。地中海沿岸部にはバルセロナバレンシアなどスペインの主要都市が位置する。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「イベリア半島」の解説

イベリア半島(イベリアはんとう)
Península Ibérica

ヨーロッパ大陸の南西端に位置し,面積は約58万km2,ヨーロッパとアフリカ,地中海と大西洋の四つ辻として古来さまざまな民族,文化を受け入れた。ローマ支配,西ゴート侵入をへて,8世紀には半島のほとんどがイスラーム支配下に入るが,キリスト教徒のレコンキスタの過程で諸王国が成立,やがてポルトガル王国とスペイン王国にまとまった。中世末には,豊かな文化を生んだキリスト教,イスラーム,ユダヤ教の共存が崩れ,カトリック的使命を掲げて両国は対外的発展をとげた。17世紀には国際的優位を失い,以後,教会・大地主の支配のもとで社会の停滞が目立った。現在,両国はヨーロッパ連合(EU)の一員であるとともに,かつてのアメリカ,アフリカ植民地諸国とヨーロッパのかけ橋ともなっている。

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百科事典マイペディア 「イベリア半島」の意味・わかりやすい解説

イベリア半島【イベリアはんとう】

ヨーロッパ南西部に突出する半島。スペイン,ポルトガル2国で占められ,中央部メセタは中央山地で南北に分かれ,北部は平均標高700〜800m,南部は600〜700mの高原。北東部にはピレネー山脈が,南部にはグアダルキビル川低地をはさんでシエラ・ネバダを主とする山脈が走る。
→関連項目マグリブ

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