ラーダ(英語表記)Rada

改訂新版 世界大百科事典 「ラーダ」の意味・わかりやすい解説

ラーダ
Rada

ウクライナ語やポーランド語などで会議,集会,評議会などの意。ドイツ語のラートRat,ロシア語のソビエトsovetにあたる。歴史上さまざまな場合に統治機関,代表会議,大衆集会などを指す用語として用いられた。たとえばウクライナ・コサックの集会はラーダと呼ばれた。現在ウクライナとポーランドでは権力機関を指す言葉として使われている(最高ラーダ,閣僚ラーダなど)。1917年の二月革命直後,キエフ民族統一戦線としてウクライナ中央ラーダが形成された。戦前から存在したウクライナ知識人の組織〈ウクライナ進歩主義者協会〉を基礎に成立したこの中央ラーダは,事実上のウクライナ自治政府の役割を果たした。議長には歴史家フルシェフスキー,副議長には作家のビンニチェンコV.K.Vinnichenkoと文学史家のエフレーモフがなった。中央ラーダはウクライナ自治を各分野で実現していったが,その過程でロシアの臨時政府と厳しく対立した。十月革命後中央ラーダ政府はロシアから分離する姿勢をとり,11月の第3次宣言と18年1月の第4次宣言でウクライナ人民共和国の成立とその完全な独立とをうたった。大統領にはフルシェフスキーが就任した。しかし,ソビエト・ロシアはこれを認めず,3万の軍隊を送って18年1月キエフを占領した。中央ラーダ政府はドイツ,オーストリア単独講和を締結し,同年3月にドイツ,オーストリア軍の協力の下にウクライナをソビエト・ロシアの手から回復した。その後中央ラーダ政府はドイツ,オーストリア占領軍と穀物徴発をめぐって対立し,4月にはドイツ軍の後押しするスコロパツキーPavel P.Skoropadskii(1873-1945)将軍クーデタによって倒され,中央ラーダ政府の要人は多くが外国に亡命した。
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