プリディ(読み)ぷりでぃ(英語表記)Pridi Phanomyong

日本大百科全書(ニッポニカ) 「プリディ」の意味・わかりやすい解説

プリディ
ぷりでぃ
Pridi Phanomyong
(1900―1983)

タイの政治家。欽賜(きんし)名ルアン・プラディット・マヌータム。タイの法律学校卒業後、パリ大学に留学。1928年帰国し司法省に勤務。1932年の立憲革命軍部ピブンと並ぶ文官派の指導者として参画。1933年土地国有化を含む新経済政策を提示し、軍部から共産主義者と攻撃されフランスに亡命。同年帰国後、内相、外相、財務相を歴任、反軍部政治家として台頭。第二次世界大戦中は抗日組織「自由タイ運動」を指導。1946年首相となったが同年辞職。1947年ピブンのクーデターで中国に亡命。中国政府の援助下に1953年「自由タイ自治区」を樹立したとも伝えられた。1970年パリに赴き、1983年5月同地で客死した。

[黒柳米司]

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改訂新版 世界大百科事典 「プリディ」の意味・わかりやすい解説

プリディ
Pridi Phanomyong
生没年:1900-83

タイの政治家。欽賜名ルワン・プラディットマヌータム。法務省付属法律学校卒業後,21歳でフランスへ留学。プラユーンらとともに同地に立憲革命を目ざした同志グループを結成。1927年帰国,法務省に勤務。人民党の文官派のリーダーとして32年の立憲革命に参加,人民党宣言やシャム国臨時統治憲章を起草し,タイ立憲制の基本理念を描き出した。33年起草の国家経済計画案で共産主義者の烙印を押され一時海外へ逃れた。帰国後,外務大臣などを歴任,不平等条約撤廃タマサート大学創設など幅広く活躍。第2次世界大戦期には抗日地下組織自由タイを指揮。46年待望の首相に就任したが,ラーマ8世変死事件により辞任翌年ピブン派のクーデタにより失脚した。反軍部を志向する政治家や知識人の間では,今なお強い信望がある。49年8月ごろ中国へ亡命,70年よりフランスに滞在。多数の著書がある。
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