バルラハ(英語表記)Ernst Barlach

改訂新版 世界大百科事典 「バルラハ」の意味・わかりやすい解説

バルラハ
Ernst Barlach
生没年:1870-1938

ドイツ表現主義の代表的彫刻家版画家,劇作家ホルシュタインのウェーデルWedelに生まれ,ハンブルクドレスデンに学ぶ。最初,世紀末芸術に接近するが,1895-96年のパリ滞在中ドーミエやミレー共鳴,1906年ロシア旅行で農民の生活にふれ,後期ゴシック美術と民衆芸術に傾倒した。〈人間は自然の失敗作〉とする宗教的幻視に基づき,彫刻では木の量塊の中に動勢と精神性を一致させ,版画では人物をも非実体化し自然に融合させる。戯曲では《死んだ日》(1912),《哀れないとこ》(1918),《ノア洪水》(1924),《蒼いボル》(1926)などが代表作であり,〈自伝〉(1928)も残す。19年プロイセン美術アカデミー会員となるが,ナチス台頭後は〈退廃芸術〉家として糾弾された。ハンブルクのバルラハ・ハウス(1962開設)に造形作品の多くが収蔵されている。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「バルラハ」の意味・わかりやすい解説

バルラハ
Barlach, Ernst

[生]1870.1.2. ウェーデル
[没]1938.10.24. ギュストロ
ドイツの彫刻家,版画家,著作家。ハンブルク,ドレスデン,パリで学び,1906年にはロシアを訪れた。 09年にベルリン芸術院会員。 10年から北ドイツのギュストロに定住,素朴な農夫の生活や,老婆乞食,祈る人などを主題に,木彫ブロンズ表現主義の作品を制作。第1次世界大戦に従軍。 38年にはナチスに退廃的芸術家とみなされ,約 400点の作品が破壊された。残りの作品はリューネブルク付近のバルラハ小美術館,ニューヨークの近代美術館に収蔵。著書に戯曲『死せる昼』 Der tote Tag (1912) ,『自叙伝』 Selbsterzähltes Leben (28) がある。

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百科事典マイペディア 「バルラハ」の意味・わかりやすい解説

バルラハ

ドイツの彫刻家,劇作家。ホルシュタイン生れ。後期ゴシック彫刻の影響を受け,主として木彫で北方的な象徴性の強い表現主義的な作品をつくる。戯曲では,《死んだ日》(1912年),《ノアの洪水》(1924年)などを残した。ナチスから退廃芸術とみなされ,不遇の中で没した。

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世界大百科事典(旧版)内のバルラハの言及

【ドイツ美術】より

…しかしシュトラスブルク(1235ころ起工)やケルン(1248起工)のように北フランスのサン・ドニ修道院やアミアン大聖堂の影響を直接受けるのはむしろ例外に近く,多くはマールブルクのエリーザベト教会(1283献堂)やトリールの聖母教会(1243献堂)にみるように,ゴシックの要素を用いながらも,ドイツ固有の広い堂内空間の創出へ向かう。なかでも身廊と側廊とを同じ高さにしたエリーザベト教会のハレンキルヘ形式は,以後のドイツ・ゴシック教会堂建築の主流となって,ことに14,15世紀のパルラー家の手になるシュウェービッシュ・グミュントの聖十字架教会(1351起工)やコリーンKolinのザンクト・バルトロメウス教会(内陣,1360‐85),シュテットハイマーH.Stetheimar(Stettheimer)によるランツフートのザンクト・マルティン教会(1392以前起工)へいたるドイツ特殊ゴシックの出発点となった。また11,12世紀以降ドイツ騎士修道会領として栄えた北ドイツでは,石材の少ないことから煉瓦建築が発達し,ハンザ都市の市民文化の興隆とあいまって広大な堂内空間をもつ建築群が成立した。…

【プラハ大聖堂】より

…1344年に着工し,85年には内陣が献堂された。工事の前半はフランスのアラス出身のマチューMathieu d’Arras(?‐1352),後半はドイツから招かれたペーター・パルラー(パルラー家)により,洗練されたフランス・ゴシック様式で完成を見た。南入口ほかの天井には,飛びリブを持つ繊細なボールトの構成が見られる。…

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