バスク(地方)(読み)ばすく(英語表記)Basque

翻訳|Basque

日本大百科全書(ニッポニカ) 「バスク(地方)」の意味・わかりやすい解説

バスク(地方)
ばすく
Basque

英語やフランス語ではバスクというが、バスク語ではエウスカディEuskadiという。フランスとスペイン両国にまたがるピレネー山脈西端麓(ろく)の地方名。フランスではペイ・バスクPays Basque(バスク地方の意)、スペインでも同様にパイス・バスコPaís Basco、またはバスコンガダスVascongadasともよばれる。フランス側はラブール、バス・ナバル、スールの旧3地方に相当するピレネーザトランティク県バイヨンヌ郡とオロロン・サント・マリ郡西部を占め、バスク地方の人口は約22万(1990)。スペイン側はギプスコアビスカヤ、アラバ3県からなるバスク自治州(面積7261平方キロメートル、人口213万0783、1995)とナバラ自治州(面積1万0421平方キロメートル、人口53万6192、1995)の範囲にわたり、バスク語を話す人口はそれぞれの州人口の26%、12%を占める。

[田辺 裕・滝沢由美子]

自然・産業

フランス側はピレネー山脈北西麓の標高2000メートル以下の丘陵地帯を占め、気候は温暖湿潤で、ヒツジ乳牛などの牧畜トウモロコシ、ブドウなどの農業が行われる。海岸部では漁業と観光業が盛ん。工業は中心都市バイヨンヌに集中する。スペイン側は起伏に富むが、カンタブリカ山脈とピレネー山脈の間の陥没地であるため、ほとんど1500メートル以下である。フランス側同様、温和な西岸海洋性気候のため、牧羊や酪農、農業(トウモロコシ、ライムギジャガイモ、野菜など)が盛ん。スペイン北部最大の都市ビルバオを中心とする工業地帯には人口が集中し、金属、機械、化学などの工業が立地する。この人口集中地域では非バスク人が増加しているが、過激派グループ「バスク祖国と自由」(ETA)がバスク人であることの条件に掲げているバスク語理解については、バスク自治州では79年に、ナバラ自治州では86年に、州の公用語としての地位を与えられ、バスク語教育が公教育に導入された。ただし、バスク語を日常言語とする両州の住民は約62万人でバスク地方住民の約23%にすぎない。また、フランス国内のバスク地方ではこのような法律はない(1995)。

[田辺 裕・滝沢由美子]

バスク独立運動

バスク人は特有の言語をもつだけでなく、民族的にも文化的にも独自のものを有し、伝統的に独立運動が盛んである。とくに1960年代には民族独立運動が急進し、1959年には、地方自治権拡大を要求するバスク民族主義党(PNV)に対し分派した過激派であるETAによるテロ活動が頻発した。79年のバスク、ナバラ両地方の自治権確立後もバスク・ナショナリズムは衰えていないが、バスク人口比率の低下もあり、86年11月のバスク地方立法議会選挙ではPNVが第一党の座から転落した。90年代に入り、ETAのテロ活動はふたたび激化したが、逆に国民の批判は高まっている。

[田辺 裕・滝沢由美子]

歴史

ローマはここに軍事的・商業的通路と行政中心地ポンペヨポリスPompeyópolis(現在のパンプロナ)をつくったが、先住のバスク人は自治を保持し、ローマ化の度合いは少なく、末期にその居住地は現在のフランス領に拡大した。5世紀に西ゴート人、8世紀にイスラム教徒の侵入を受けたが全面的には占領されず、後者に対抗して侵入したシャルルマーニュの一軍は『ロランの歌』にあるようにここで打ち破られた。8世紀にアストゥリアス王国に一部を支配されたが、11世紀にナバラ王国が全土を支配した。12世紀から一部がカスティーリャ王国の勢力下に入り、のち貴族の抗争が続いたが、この間フンタとよばれる自治機関が発展した。16世紀、カスティーリャ王国のナバラ王国併合によって前者の一部となったが、税制などの地域的特権(フエロス)は維持され、またフランス側地域は分離された。17世紀には農民解放が進み、西部では工業・港湾業が発展し、独自文化志向が強まったが、他方でフエロスはしだいに縮小された。19世紀初頭、フランス軍がこの地域から侵入したが、バスク人はこれに抵抗した。王位継承問題を契機とした19世紀の三次にわたるカルリスタ(カルロス派)戦争では、カトリック擁護やフエロス維持を掲げるカルロス派の拠点となったが、この戦争の敗北でフエロスは大幅に制限された。その後、1880年代からビスカヤを中心として鉄鉱石採掘、製鉄・鉄鋼・金属産業が急速に発展、北部はスペイン有数の工業地域となった。このころから自治の復活を掲げる地域主義、民族主義の動きが現われ始め、95年にはバスク民族主義党が創設された。1931年成立の第二共和政下で自治要求は一挙に高まり、36年にはこれを約した人民戦線派を支持、内戦開始後に自治権が付与されたが、ゲルニカ爆撃を伴った反乱派の攻撃で占領され、自治権を失った。内戦期や第二次世界大戦後も、バスクでの地下抵抗運動や亡命バスク政府による自治要求は収まらなかったが、フランコ政権が徹底弾圧で対処したので、これに対抗して59年には武力闘争とテロに訴えるETAが誕生した。フランコ死後の78年、憲法で民族自治が保障されたことにより、79年にバスク民族主義党主導の自治政府が復活、確立した。しかし、独立を求めるETAはテロ・誘拐活動をやめず、現在に至るまで多くの犠牲者が生まれている。

[深澤安博]

『渡部哲郎著『バスク もう一つのスペイン――過去・現在・未来』(1984・彩流社)』『J・アリエール著 萩尾生訳『バスク人』(白水社文庫クセジュ)』『田辺裕監修・訳『図説世界の地理10イベリア』(1997・朝倉書店)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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