バイユーのタピスリー(英語表記)Tapisserie de Bayeux

改訂新版 世界大百科事典 「バイユーのタピスリー」の意味・わかりやすい解説

バイユーのタピスリー
Tapisserie de Bayeux

フランス,バイユーのノートル・ダム大聖堂所蔵の,11世紀の刺繡壁掛け。約70m×0.5mの麻布地に,青,緑,黄等濃淡8色の毛織糸を使用。ノルマン人のイギリス征服のエピソード--ウェセックス公ハロルドの偽りの誓いがウィリアムによる征服とハロルドの敗北と死を招くという因果物語--が,様式化の中にものびやかに描かれる。11世紀の風俗を知るための最も確実な稀有の資料として,また当時重要な美術品のカテゴリーであったこの種の作品の唯一の残存例として貴重。ウィリアムの異父弟オドンOdon(1032-97)が司教であったバイユー大聖堂の身廊に,1077年の献堂式以来,聖遺物の祝日から9日間張りめぐらされたという。19世紀に控えめな修復がなされた。18世紀には《マティルド王妃のタピスリー》と誤って呼ばれる。工房や作者は不明。銘文等からケント伯になったオドンがバイユー大聖堂のためにイギリス人刺繡工に作らせたとする説が有力。タピスリー(つづれ織)と呼びならわされているが,実際には刺繡である。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「バイユーのタピスリー」の意味・わかりやすい解説

バイユーのタピスリー

バイユー・タペストリー」のページをご覧ください。

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世界大百科事典(旧版)内のバイユーのタピスリーの言及

【イギリス美術】より

…特に13~14世紀には絹に金糸の刺繡をほどこした豪華な織物が〈イギリス製品Opus Anglicanum〉としてヨーロッパ各国に輸出され,これで作った法衣を愛用したローマ教皇もいた。また〈バイユーのタピスリー〉と呼ばれる刺繡壁掛けは,バイユーの司教のため1066‐77年ころカンタベリーで作られたといわれるもので,全長約20mに及ぶ。ノルマン征服のもようを絵巻物風に表し,歴史的資料としても重視される。…

【甲冑】より

…初めは柳の枝を編み上げた上に皮革を貼った長方形の大きな楯を用いたが,のちに鉄板を張った円形の,表面にいくつか突起をつけた楯が出現する。 バイユーのタピスリーはノルマン・コンクエスト(1066)の情景を描いた長大な絵巻物で,当時の,少なくとも製作当時(12世紀初め)の甲冑を知る貴重な材料である。すでに,そこには長槍を構えた騎士の突撃戦が描かれているが,騎兵歩兵を問わず甲冑はまだ比較的簡単である。…

【刺繡】より

…他方,古代オリエントからエーゲ海の島々を経て東欧,北欧へと伝わった刺繡技術は土着の刺繡に影響を与えた。 11世紀初めのフランスの《バイユーのタピスリー》は,ノルマンディー公爵ギヨームがイギリスを征服する物語を幅50cm,長さ約70mのリネン地に10色以上の毛糸で刺繡する。形式は北欧風,技法はオリエントのイスラム系で,芸術性の高い作品である。…

【ノルマン人】より

…(3)この新しいノルマン人は,バイキングの造船・軍事技術などいくつかの伝統を保持したが,ほとんどの場合,他のフランス貴族と通婚し,また現地住民を妻妾としたため,急速にスカンジナビア人の人種的な特質を失い,1066年のイングランドに対するノルマン・コンクエストの頃(指導者ウィリアム1世征服王はロロから6代目の公)には,フランス語しか話せぬフランス人だったといってよい。この征服の経緯を絵と短い文章で示す《バイユーのタピスリー》には,この戦いがアングル人とフランク人の戦いとされている。(3)の意味でのノルマン人は,南イタリア,シチリア,ビザンティン帝国などでも,征服者,傭兵などとして政治史的に大きな役割を演じた(シチリア王国ロベール・ギスカール)。…

※「バイユーのタピスリー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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