ハインリヒ[3世](読み)ハインリヒ

百科事典マイペディア 「ハインリヒ[3世]」の意味・わかりやすい解説

ハインリヒ[3世]【ハインリヒ】

ザリエル朝ドイツ国王(在位1028年―1056年,単独統治は1039年より),神聖ローマ皇帝(在位1046年―1056年)。黒王と称される。コンラート2世の子。計画的な王領地経営と帝国家人の登用で王権の伸張を図り,クリュニーの修道院改革運動に共鳴した。2度イタリアに遠征し,1046年対立する3教皇を廃止して初のドイツ人教皇クレメンス2世を擁立。中世ドイツの最盛期現出
→関連項目ゴスラーハインリヒ[4世]

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世界大百科事典 第2版 「ハインリヒ[3世]」の意味・わかりやすい解説

ハインリヒ[3世]【Heinrich III】

1017‐56
ザリエル朝第2代のドイツ国王(在位1028‐56。ただし,統治は1039から),神聖ローマ皇帝(在位1046‐56)。同朝初代国王コンラート2世の息子。国内諸大公の相つぐ反乱を押さえ,一時はフランケンバイエルン,シュワーベン,ケルンテンの大公領を一手に収め,ドイツ王権の最盛期を実現した。また1046‐47年ローマに遠征し,鼎立していた3人の教皇を廃し,ドイツ人のクレメンス2世を教皇とし,教会改革を推進して,教皇権権威確立に貢献した。

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世界大百科事典内のハインリヒ[3世]の言及

【キリスト教】より

…これに対しオットー3世(在位996‐1002)は,〈王にして祭司〉という古ゲルマンの思想にもとづく教会統治権を行使して,司教を叙任したのみでなく教皇選挙にも加わろうとした。ハインリヒ3世(在位1039‐56)はフォティオスによる東西教会の分離(867)以後弱体化した教皇庁をみずからの手で改革せんとして,ドイツ人の教皇を立てた。そこで教皇側は教皇権至上主義を主張し,その普遍主義を各国王の分立主義に優先させる闘争を開始した。…

【ザクセン】より

…ザクセンも東からのスラブ人の圧力,北からのノルマン人(北ゲルマン人)の侵入に対し自力で対抗せざるをえなかったが,その際,指導者としての頭角を徐々にあらわし,ついに部族全体に対する大公dux(ドイツ語ではヘルツォークHerzog)の地位を築くのに成功したのがオストファーレンに勢力をはるリウドルフィング(リウドルフ)家Liudolfingerであった。しかも同家のハインリヒ1世は,919年,コンラート1世の後をうけ,フランク族以外の出身者としてはじめてドイツ王位につく。これ以来,同家は1世紀余にわたりドイツ王国を支配したばかりでなく,オットー1世が皇帝位をえてからは(962),西方キリスト教世界全体を防衛,統治する任務をも負うことになった(ザクセン朝)。…

【ザリエル朝】より

…1024‐1125年。ハインリヒ3世(在位1039‐56),ハインリヒ4世(在位1056‐1106),ハインリヒ5世(在位1106‐25)と直系相続により4代継続。この王朝がザリエル朝と呼ばれだすのは12世紀初頭以降で,14世紀から一般に使われるようになった。…

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