ニャウンヤン朝(読み)にゃうんやんちょう(英語表記)Nyaungyan

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ニャウンヤン朝」の意味・わかりやすい解説

ニャウンヤン朝
にゃうんやんちょう
Nyaungyan

1597年、上ビルマ(現ミャンマー)、アバAvaの地にニャウンヤン王によって樹立された王朝。首都の名にちなみアバ朝とも、ニャウンヤン王が前王朝であるタウングー朝の血統を引くため前王朝と同じくタウングー朝ともいわれる。第2代アナウッペルン王Anaukpetlun(在位1606~28)のとき都は下ビルマのペグー(現バゴー)に移されたが、タールン王(在位1629~48)の1635年、ふたたびアバに戻った。この王朝はこれまでのビルマの王朝と異なるいくつかの新統治方式を導入した。たとえば、地方のミョウ(城市)を再編均等化し、ミョウウン(知事)やナーガン(御目付(おめつけ))などの役人を派遣して支配させた。また税源調査sittanも施行している。しかし、王位継承をめぐって中央政府部内に派閥が形成され、抗争地方役人や在地のトゥージー(首長)まで巻き込んだ。そして、ついには権力が派閥の実権者に集中し、国王は名目的な存在となってしまった。王朝後期のサネ王(在位1698~1714)やタニンガヌエ王(在位1714~33)などがこれである。また一方でこの弊害は、中央官僚の黙認もと、同派閥の地方役人による租税横領、住民への重税となって表れた。そして1740年、上・下ビルマにおけるグエ人やモン人反乱を引き起こし、ついにはペグーからの攻撃によりアバは1752年に陥落した。

[伊東利勝]

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世界大百科事典(旧版)内のニャウンヤン朝の言及

【アバ朝】より

…ビルマ語でアワAwaまたはインワInwaとよばれるシャン族の王朝。1287‐1555年。タウングー朝の後身ニャウンヤンNyaungyan朝(1605‐1752)を指すこともある。パガン王統を廃絶させたシャン族首長3人は,元の大徳年間(1297‐1307)の侵入を退けた後,1312年にピンヤ,15年にサガインに王城を築き,2系列の王統を樹立した。両王朝ともその支配地域はイラワジ川流域の中部ミャンマーに限られたが,北方ではマオ・シャン,モーニン・シャンなどの部族が割拠し,南部ではモン族のハンターワディー王朝が安定した勢力をもっていた。…

【タウングー朝】より

… しかし強力な中央集権体制に欠けていたため,81年のバインナウンの死後王権が分裂,小国割拠の状態に陥った。この混乱はバインナウンの孫アナウペッルンAnaykpetlunによって1605年収拾された(したがってこれ以後はニャウンヤン朝ともよばれる)。王都ペグーは,オランダ,イギリスとの交易で栄えたが,南部のモン族の反乱と東部のシャン族への警戒とから,28年タールン王は都を内陸部のアバへ移した。…

※「ニャウンヤン朝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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