デジタル大辞泉 「シュトラウス」の意味・読み・例文・類語
シュトラウス(Strauss)
(Johann ~)[1825~1899]オーストリアの作曲家。の長男。ウィンナワルツを芸術作品にまで向上させ、約500曲もの作品を残した。ワルツ王と称される。作品に「美しく青きドナウ」「ウィーンの森の物語」、オペレッタ「ジプシー男爵」「こうもり」など。
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ドイツの作曲家,指揮者。ミュンヘンの宮廷オーケストラのホルン奏者を父とする。1880年代に本格的な創作活動に入る。初期は交響曲,協奏曲,ソナタなど,伝統的なジャンルで作品を書く。85年10月,マイニンゲンでH.vonビューローのもとで副指揮者となって,この時から作曲家と指揮者という二重生活が始まった。同年12月から翌年4月までマイニンゲン宮廷音楽監督,86年秋より3年間ミュンヘン宮廷歌劇場第3指揮者となる。この頃から《ドン・フアン》(1888)や《死と変容》(1889)といった交響詩を書きだし,ドイツ後期ロマン派の最後の代表者として,また華やかなオーケストレーションの技法を駆使した独特の作風を確立。89年秋から94年6月までワイマール宮廷劇場で第2指揮者を務める。94年10月,再びミュンヘン宮廷歌劇場で,第2指揮者に就任。96年第1指揮者に昇格。この頃より,指揮者として,同世代のマーラーおよびワインガルトナーと楽壇の帝王を競うようになる。またこの時期には,作曲家としても目ざましい活躍をして,《ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら》(1895),《ツァラトゥストラはこう語った》(1896),《ドン・キホーテ》(1897),《英雄の生涯》(1898)といった彼の創作を代表する交響詩の傑作群が書かれた。98年からベルリン宮廷歌劇場の第1指揮者に就任して,20年間その地位にありながら,ヨーロッパ各地,アメリカに演奏旅行。また芸術院会員,ベルリン音楽大学作曲科主任教授ともなる。作曲家としては,20世紀に入ってから交響詩をやめて本格的にオペラを手がけるようになり,《サロメ》(1905),《エレクトラ》(1908),《ばらの騎士》(1910),《ナクソス島のアリアドネ》(1912),《影のない女》(1917)などを次々に発表,オペラ作曲家としての地位を不動のものとした。また《家庭交響曲》(1903)と《アルプス交響曲》(1915)とによって管弦楽曲に新境地を開いた。1919-24年にウィーン国立歌劇場総監督を務める。33年ナチスの音楽局総裁となったが,35年辞任し,アルプスの山荘に隠遁生活を送る。第2次大戦後,戦犯として裁判にかけられたが無罪となった。《エレクトラ》までに見せた大オーケストラを駆使する官能的な作風は,《ばらの騎士》以後消え,代わって簡素な新古典主義的な様相が現れてくる。そしてついに晩年には再び協奏曲などを作曲するなど,彼の様式は大きな転換を示した。
執筆者:大崎 滋生
オーストリアの音楽家。19世紀にウィーンで,ウィンナ・ワルツを中心とした通俗的な音楽の作曲・演奏に活躍した父子で,同姓同名のために父を〈ワルツの父〉,子を〈ワルツの王〉と呼び分けることもある。
(1)父(1804-49) 初めパーマーに率いられる大衆的なダンス楽団でビオラを弾いていたが,1824年,バイオリン奏者のランナーJoseph Franz Karl Lanner(1801-43)とともに独立。翌年自分の楽団を組織,作曲も手がけるようになる。29年にウィーンのレオポルトシュタットにある,外国からの訪問客も多いビヤガーデン兼ダンスホール〈シュペールSperl〉の専属となって,人気を集める。33年以後楽団をひきつれて,ヨーロッパ各地を訪問し,ウィンナ・ワルツを広める。150曲を超えるワルツ,14曲のポルカ,16曲の行進曲,28曲のギャロップ,34曲のカドリーユ,などの作品を残した。《アンネン・ポルカ》《ラデツキー行進曲》などがよく知られている。
(2)子(1825-99) 父の反対を押してひそかに音楽の勉強を始め,1842年に父が家庭を棄ててから,本格的に取り組む。44年に独自の楽団を組織してデビュー。父の死後,その楽団を吸収して,ワルツ界の帝王となる。その後ヨーロッパ各地,ロシア,アメリカに演奏旅行を重ねた。60年代から作曲に力を入れ,《美しく青きドナウ》《芸術家の生涯》(ともに1867),《ウィーンの森の物語》(1868),《酒・女・歌》(1869)などをはじめとする数々の傑作を書きだした。このようなワルツ創作は晩年の三名作といわれる《春の声》(1883),《皇帝円舞曲》(1890),《もろ人よ,手をとり合え》(1892)に至るまで続き,約170曲を数える。またポルカも,弟ヨーゼフJosef(1827-70)との合作《ピチカート・ポルカ》(1869)をはじめとして,生涯を通じて創作し,その総数は約120曲にのぼる。一方,70年代に入って,当時パリで流行していたオペレッタにも手を広げ,《こうもり》(1874)や《ジプシー男爵》(1885)に代表される18曲を書き残している。
執筆者:大崎 滋生
ドイツの聖書学者・神学者。チュービンゲンで神学を学び,同郷の先輩ヘーゲルに師事すべくベルリン大学におもむいたが,ヘーゲルが急死したため,経歴上はヘーゲルの直弟子ではない。シュトラウスはその著《イエスの生涯》2巻(1835-36)において聖書の批判的研究を試み,福音書に記されているイエス・キリストの事績は歴史的事実ではなく,原始キリスト教団が〈無意識的〉に生み出した〈神話〉である旨を指摘しつつ,ヘーゲルの宗教哲学を継承する方向で独特のキリスト教論を展開した。彼は歴史的事実と信仰的真理とを区別し,その所説は信仰的真理をなんらそこなうものではないと主張したが,正統派の神学者たちからはもとより,ヘーゲル学派からも激烈な批判を浴びることになった。シュトラウスの問題提起を機縁にした内部論争ひいては対外論争を通じて,ヘーゲル学派はいわゆる左派・中央派・右派に分裂するに至る。ちなみに,左派・右派というのも元来はシュトラウス本人の命名である。シュトラウスの敷いた路線は,やがて,当初は右派であったB.バウアー,さらには,L.A.フォイエルバハによって展開され,キリスト教そのものの批判にまで及ぶ。この論脈において,彼はヘーゲル左派一番手としての位置を占める。
執筆者:廣松 渉
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ストラウスをも見よ。
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…合理主義のイエス伝研究(H.E.G.パウルスやシュライエルマハーなど)は,イエスの奇跡と復活を超自然的事件として説明する立場に対抗して,可能な限り合理的に自然的現象へ還元する説明を企図した(例えば,イエスの復活は仮死状態からの蘇生とされる)。奇跡説明をめぐる論争に終止符を打ったのがD.F.シュトラウスの《イエス伝》(1835‐36)である。シュトラウスはヘーゲル哲学から出発して福音書批判へと向かい,合理的説明に服し切らない記事を,旧約聖書と後期ユダヤ教のメシア的終末理念が原始キリスト教団により二次的にイエスの上に適用されて形成された〈伝説=神話〉であるとして説明した。…
…ゼムラーJohann Salomo Semler(1725‐91)は,正典結集の歴史を研究して,聖書は霊感によって一度に書かれたものではないことを明らかにした。D.F.シュトラウスは福音書の超自然的奇跡の史実性を否定し,バウルFerdinand Christian Baur(1792‐1860)は初代教会における律法主義と福音主義の対立を描き,〈パウロ書簡〉のうちどれが実際パウロによって書かれたかを論じた。ホルツマンHeinrich Julius Holtzmann(1832‐1910)は〈二史料説〉(マタイとルカはマルコとイエス語録Qを利用した)を完成した。…
…1831年ヘーゲルの死をきっかけとして,ヘーゲル哲学がかろうじてつなぎとめていたそれぞれの対立項は,ヘーゲル哲学への内在的批判という形で解体していった。ヘーゲル学派はD.F.シュトラウスの《イエス伝》(1835‐36)の公刊を機に分裂した。《イエス伝》は,歴史的世界に生きる人間としてのイエス像と,聖書の記載とが一致しないことを雄弁に説いて,同時代人に衝撃を与えた。…
… ドイツのプロテスタントでは,シュライエルマハーからK.バルト以前までの神学を広く近代主義神学と呼ぶが,ここでは自由主義神学のほうが一般的名称である。ただし狭い意味での自由主義はD.F.シュトラウス,ビーダーマンA.E.Biedermann(1819‐85)のように教義を解消していくもの,および19世紀の終りに登場する宗教史学派(聖書学者に多いが体系的にはE.トレルチが代表する)にみられる。シュライエルマハーは敬虔主義に連なって,教義中心の正統主義を批判し,キリスト教を宗教論と信仰論としてとらえ直すことに努めた。…
…数曲連鎖したワルツに序奏と後奏のついた形式,変化に富んだ全曲の統一性,低音の1打に二つの和音が続く伴奏型(いわゆる〈ズン・チャッ・チャ〉),かなり急速なテンポなどである。こうした形態はランナーとヨハン・シュトラウス(父)によって磨きあげられ,〈ワルツ王〉と呼ばれた息子のヨハン・シュトラウスは,舞踏用ワルツを鑑賞用の芸術音楽に劣らぬ水準にまで高めた。こうした〈ウィンナ・ワルツ〉のほかにもさまざまな変種があり,フランスのバルスvalse,アメリカのボストン・ワルツが代表的である。…
…日本では1913年松井須磨子主演で,島村抱月の芸術座が帝国劇場で上演した。
[音楽]
ワイルドの《サロメ》のH.ラハマンによるドイツ語訳を基に,R.G.シュトラウスはオペラ《サロメ》を作曲,マスネーは繊細で優美な曲《エロディアード》(1881)を書き,F.シュミットはR.デュミュエールの詩を基にバレエ曲《サロメの悲劇》(1907)を作曲している。【井村 君江】。…
…R.G.シュトラウスの第3作目の1幕のオペラ。O.ワイルドの同名の戯曲(ドイツ語訳,H.ラハマン)に基づく作品で,1905年,ドレスデンのオペラ座で初演され,その初演は,官能的で頽廃的な筋書と絢爛豪華なシュトラウスの音楽によってセンセーションをまきおこした(日本初演1962)。…
…R.シュトラウスの代表的なオペラ作品で,1910年,ホフマンスタールの台本をもとに完成された。11年1月26日のドレスデン宮廷歌劇場での初演は,台本の内容が不道徳だということで賛否両論のセンセーションを引き起こした。…
※「シュトラウス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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