キリスト教美術(読み)キリストきょうびじゅつ

改訂新版 世界大百科事典 「キリスト教美術」の意味・わかりやすい解説

キリスト教美術 (キリストきょうびじゅつ)

キリスト教美術とは何かに関しては,これを形式および内容の両面から考えることができる。まず形式の側から見れば,建築の場合では,一般信徒用の建物(大聖堂,教区聖堂)は,キリスト教典礼に必要な構造をもつこと,つまり祭壇を中心とする祭室または祭室に付随する空間を含む内陣と,典礼に列席する信徒の席のある身廊を備えることであり,ときとして洗礼堂,ナルテックス(前室),アトリウム(前庭)などがこれに付属する。これに対し修道士用の建物(修道院建築)では,修道院聖堂のほか,寝室,居室,食堂,図書館,作業室,客室などを含む総合的構成をもつことが普通である。彫刻や絵画に関してキリスト教的である形式的条件は,具象的であると抽象的であるとを問わず,キリスト教的図像を表すことである。ただし他の宗教や世俗の美術と共通の図像でも,それがキリスト教建築装飾として,あるいはキリスト教的環境の中で用いられる場合には,これをキリスト教美術として見ることもできる(オリエント系の〈生命の樹〉や中世末期の寄進者像など)。工芸に関しては,典礼あるいは信徒の信仰生活に必要な機能をもつことが条件で,聖杯とパテナ,遺物器,祭服,司教杖などがその例で,多くの場合それにキリスト教的図像や象徴などが表される。以上に対して,内容の面からのキリスト教美術は,単に形式的・外的にキリスト教的であるにとどまらず,表現様式を通して深くキリスト教的感情を表現しているものを指す。形式的にはキリスト教美術でも,内容的には世俗的または異教的である場合もなしとしない。講堂に祭壇を置いても直ちに宗教的雰囲気は出てこないであろうし,裸身のビーナスに衣を着せ頭光を付けても直ちに聖母とはならない。実質的なキリスト教美術はむしろキリスト教的美術というべきであろう。

まずキリスト教図像の表現について見ると,宗教図像には象徴的なもの(諸種の十字文,円形文,組紐文など抽象的なものと,〈善き羊飼い〉〈神秘の小羊〉など具象的なものがある)と写実的なもの(礼拝像,教義的図像,説話的図像など)とがある。このうちとくに後者の場合,つまりキリストその他を直接に人間の形で表現した図像に関しては,その可否をめぐって初期キリスト教時代以来しばしば激しい論争がなされた。キリスト教の前身であるユダヤ教は偶像崇拝を厳しく禁じており,キリスト教も最初そのような考えをそのまま踏襲したのである。旧約・新約聖書には,偶像を禁止する趣旨の文章がいくつも見いだされる。その理論的根拠は三つ数えられる。第1に,超感覚的・超物質的な神をたちまち朽ち滅びる運命にある人体に置き換えて表現することはできないこと,第2に,作られた像は要するに木や石などの物質にすぎないこと,第3に,作る者はそれ自体が不完全かつはかない存在である人間であることである。またキリスト教が出現したころの古代異教の世界では,偶像崇拝が一般に行われ,世は感覚的芸術賛美の風潮に満ちていた。このような異教社会への反動として出現したキリスト教の信徒たちが神的なものの図像表現に反対したのは当然であったといえる。このころ繰り返して行われた迫害も,そのような表現を不可能にした理由の一つであるにちがいない。4世紀に入ってキリスト教徒が信仰の自由を得,各地に数多くの教会堂が建造されるようになり,同時にキリスト教図像を容認する神学者もしだいに現れた。ただし,図像は文盲の民衆に信仰生活に必要な知識を与えるための手段と考えられ,像そのものが礼拝の対象とされることはなかった。しかし,庶民的な心理としては,理論はともかく,現に目で見かつ手で触れることのできるものを礼拝の対象としたいという気持は常にある。キリスト教美術の発展を促したものは,まずこのような庶民的心理であったといえる。

 その後のキリスト教図像の展開に関しては,教義的な問題が大きくかかわっていった。とくにキリストに関していうと,キリストにおける神性と人性の問題が重要な意味をもつ。キリストは神にして人という考え方が正統派の立場であるが,キリストは神であって人としての姿は仮のものであるとするいわゆる〈キリスト仮現論dokētismos〉,キリストは生まれたときは人であってそれが後に神性を獲得したのだとする説などがある。とくにキリスト仮現論をとれば,キリストを人間の形をもつものとして定着させてしまうことは問題であろう。以上のようなキリスト観の相違がキリスト教美術に地域的・時代的な多様性を与える重要な理由となった。とはいえ正統的な立場からすれば,キリストは抽象的・観念的な存在ではなく人間としてこの世に生きたのであり(いわゆる〈托身の秘義〉),この歴史的事実そのものが可視と不可視の結合,宗教と芸術との合致を原理的に暗示しているといえよう。このようにして,4世紀以降今日に至るまでのキリスト教会の中心的な流れは,宗教美術(正確には図像美術)の意義を認め,それを積極的に奨励しこれを信仰生活のために役立ててきたのであった。しかし他方,図像芸術の危険性を説く人たちが絶えたわけではない。作者が神にして人なるキリストの像において,神的なるものを忘れて単なる人像としてこれを表現するとき,宗教美術は単なる世俗美術に堕するであろう。キリスト教美術はややもすると世俗的になり俗悪になりやすい。その堕落の根本はやはりキリストを人の形で表現することにある。そのような考えが聖像否定論であり,さらに進んで聖像破壊論となる(イコノクラスム)。とくに東方キリスト教社会(ビザンティン社会)では,8~9世紀に激しい聖像論争が行われ流血の惨をさえ見,多くの図像芸術が破壊された。西ヨーロッパでは比較的順調にキリスト教美術が発展したが,それとても偶像崇拝あるいは過度の感覚的美術に対する警戒心は失われず,とくに12世紀のクレルボーのベルナールおよび彼の指導下にあったシトー会は,修道院建築から感覚的な装飾(およびぜいたくな素材を用いた宗教美術)を一掃すべきことを強く主張した。それによって独自の簡潔な性格をもつ宗教芸術がシトー会を中心として12~13世紀のヨーロッパに栄えた。他方,感覚的なものは超感覚的なものを認識する手段であるとする見方(サン・ドニ修道院院長シュジェールSuger)も有力で,それがロマネスク時代からゴシック時代にかけて壮大豪華なキリスト教美術を生むことになった。一般的にカトリック教会では,信仰生活における図像芸術の重要な役割が中世から近世を通じてたえず認められてきた。これに対して16世紀の宗教改革によって生まれたプロテスタント教会は,図像に偶像崇拝の危険を認め,宗教美術に対しては消極的な態度をとった。とくにカルバン派は積極的に聖像破壊運動を行い,北フランスを中心とするヨーロッパ北部一帯で暴威を振るった。それは一時はビザンティン帝国の聖像破壊運動を思わせるほどであった。しかし長い歴史を見ると,図像芸術はキリスト教社会で重要な役割を演じてきていて,これはキリスト教がユダヤ教やイスラムと著しく異なる点である。
イエス・キリスト[図像]

つぎにキリスト教図像美術の目的についていえば,宗教生活に必要な建築や宗教用具は別として,聖堂建築の装飾としてキリスト教的題材を表現した絵画や彫刻がなぜ発達したかということは重要な問題である。これらの目的は,時代によって多少変化があるが,だいたい三つに分けることができる。第1は,神の栄光の賛美である。この傾向は,4世紀にそれまでの迫害者に対して勝利を得た時代のキリスト教会,それにひきつづいて宮廷権力と結合しつつ発展したビザンティン様式の聖堂の美術(いずれもモザイク美術),および西ヨーロッパのロマネスク時代(とくに中南部フランスの教会の彫刻)に著しい。第2は,図像美術による民衆の教育である。15世紀に活字印刷が発明されるまでは,書籍はすべて羊皮紙を用いた手写本(したがって貴重品)であって民衆の手に渡らず,文盲者も多かったので,彼らに宗教的知識を供給したものは,聖堂の壁(モザイク,壁画,浮彫)や窓(ステンド・グラス)をいっぱいに飾った宗教図像であった。とくに西ヨーロッパの12~13世紀を中心とする中世盛期には,教会の図像美術の教育的役割ははなはだ重要なものとなり,この時代の大聖堂は〈貧民の聖書〉ともいわれた。そして建築装飾の主題はたんに直接に宗教関係のものにとどまらず,月暦,自由七科,善悪の概念などまでが,すべて図像によってアレゴリカルに表現された。したがって大聖堂はまた〈石の百科全書〉とも呼ばれたほどであった。しかしこのような図像の教育的役割は,近代に入って印刷本の普及とともに当然消滅してしまった。第3の目的は,美術によって信徒の宗教感情を高揚させることにある。この目的にかなうためには,キリスト教美術は,はじめに述べたようにたんに外的・形式的なものにとどまらず,より深く内容的にもキリスト教的性格を示すものでなければならない。たとえばキリストや聖母の像は,たんに図像学的条件をそなえるだけでなく,その宗教芸術としての格調の高さによって信徒に深い宗教的感動を与えるものでなければならない。各時代,各社会のキリスト教美術家たちは,この意味でそれぞれその時代の民衆の宗教生活に深く寄与すべき義務をもっていたわけであるが,彼らがすべてその義務を果たしたとはいえず,またその寄与のしかたも一様ではなかった。

キリスト教の聖堂(教会)を意味するヨーロッパ各国語は,ギリシア語のエクレシアekklēsia(集会または集会所)およびキュリアコスkyriakos(神に属するもの)の二つに由来する。聖堂は信徒の集会所であるが,またそれは神の家でもある。迫害時代には信徒は私人の家で集会を行っていたが,コンスタンティヌスの時代に入って,聖堂建築が急速に発達し,それが単なる集会所としてだけでなく,神の家としての性格を強めてゆく。この神の家は世俗の人の家と本質を異にするものである。それは建築的には,二つの特性を示す。その一つは外部に対する閉鎖性であり,他は内部空間の荘厳化である。4世紀以降少なくとも10世紀ころまでの聖堂は,東方,西方いずれも城壁のように堅固な外観をもち,その単純かつ閉鎖的なマッスは装飾をほとんどもたなかった。この点は,外界に対して開放的であり外観美を重要視するギリシア神殿とは対照をなす。また内部空間についていえば,色彩装飾とくに色ガラスの断片を主たる材料とするモザイクによって,超現実的な絢爛たる空間を作ろうと試みた。これは古代ローマの壁画とは非常な違いを示す。モザイクははがれない限りは色彩は変わらず,〈永遠の絵画〉と呼ばれたゆえんである。その絵画表現は,遠近性,重力の法則,一方向から来る光によって生じる明暗など,物質界に見られるさまざまの法則を無視して空間に超自然的な性格を与えることを意図した。聖堂内部はいわば聖なる宇宙ないし天国を集約し,可視的にしたものであった。しかし10世紀前後から以上の性格が少しずつ変化してゆく。とくに外観に関しては,東方では外壁を煉瓦の組み方の変化などによって飾る傾向がしだいに強まり(とくにバルカン北部),地域によっては外壁を壁画で覆うことさえ行われた(ルーマニア)。西方ではロマネスク時代から聖堂入口を中心に彫刻がしだいに発達し,ゴシック時代にいたって,装飾によって外観も豪華なものになった。これは,自然を超克すべきものとして見るか,それと融和すべきか,という自然観の変化の反映と見ることができる。キリスト教建築は一般に世俗建築より大型であるが,これは,多数の信徒を収容するための空間の広さだけでなく,天を象徴する空間の高さが求められたからでもある。東方では一般に内部空間の高さを志向し,それが高い円蓋の使用を一般化した。西方では鐘塔または採光塔を頂点とする外観の高さを志向した。しかし,ロマネスク時代(とくにクリュニー派)からゴシック時代にかけて内部空間を高くする努力が行われ,13~14世紀にはその石造建築としての限界点に達した。以上のような聖堂建築の壮大化傾向に対して,感覚的な美への執着は霊的修業の妨げになるとして,建築の壮大化や華麗な装飾を拒否するシトー会などの立場も,キリスト教建築として重要な意味をもつものであった。
教会堂建築

キリスト教が現れて,初めの3世紀間は,キリスト教は微力であり,かつ強い迫害のもとにあったので,キリスト教美術が発達する余地はほとんどなかった。しかも前述のように,教会を代表する神学者たちの多くは図像美術に反対したのである。この時代のキリスト教徒の墓地(とくにローマ郊外のカタコンベ)から,壁画や石棺彫刻が少なからず見いだされているが,それらは図像および様式において古代異教的色彩がはなはだ強く,象徴的図像もある程度現れるが,一般にキリスト教美術としての積極性に乏しい。4世紀初めにキリスト教がローマ帝国に公認されるにおよび,キリスト教美術は宮廷の力を背景に急速に発達する。美術家(とくにモザイク師)はあらゆる熱情をこめて神であるキリストの栄光をたたえ,全能者としての威厳にみちたキリスト像が教会美術の中心をなす。したがって肉体的苦痛にあえぐキリストの受難像などは現れない。美術の様式も異教古代美術の自然主義とはまったくその原理を異にし,三次元的な空間や量の表現には関心をもたず,色彩の神秘的効果をたくみに利用しつつ独自の精神主義的性格を示すのである(初期キリスト教美術)。6世紀以後,キリスト教美術の中心はコンスタンティノープルを都とするビザンティン帝国へ移り,前代の荘重華麗な美術の伝統が13世紀までつづき,途中で前述のように聖像論争のためにとぎれはするが,宮廷勢力と結合してはなばなしい展開を示し,西欧キリスト教美術の範ともなった。13世紀以後,修道院が勢力を得てこれに美術の中心が移り,受難のキリストや慈愛の聖母といったパセティックな図像および様式が発達して民衆に新しい信仰の方向を示し,これが西ヨーロッパの中世末期の美術に影響をあたえる。ところで西ヨーロッパでは6世紀以後,東方キリスト教美術に学びつつも,しだいに独自のキリスト教美術が成熟する。とくに11~12世紀のロマネスク時代には,古代末期以来,長期にわたってほとんど影をひそめていた彫刻がはなばなしく復活し,新しい〈栄光のキリスト〉の時代を形成する。この時代は,キリスト教美術が自然主義から最も遠ざかり,激しいばかりの神秘的抽象主義をしめした時代である。12世紀末から13世紀にかけてのゴシック時代は,自然主義に戻り,古典的輝きのもとにキリストや聖母の慈愛が民衆をあたたかく教えさとすのであった。13世紀末期から,さらに転じて美術は人間的感情の写実的表現をこととするようになり,人々はとくにキリストの受難像や優美な聖母子像をとおして現実の生活の指針を与えられたのである。以上,中世末期までは,ともかくキリスト教美術の時代であるが,14世紀末から近世に入るにおよび,美術の主流はしだいに世俗美術が占め,キリスト教美術は個々の特殊な作家の手にうつり,あるいは世俗作家が気まぐれにこれに手をつけるといった時代になる。ルネサンス時代のキリスト教美術は,そのなかに古代異教的あるいは世俗的感覚が入りこみ,芸術家は内面的な宗教感情の表現よりも外的な諸問題,すなわち人体表現の解剖学的正確さ,空間表現の三次元性などを追うようになる。美術はしだいに宗教から独立して〈美術のための美術〉となる。16世紀後半に入りカトリック教会はプロテスタント側の攻撃およびルネサンス美術の異教化に対抗して,いわゆる反宗教革命の運動をおこし,キリスト教美術をふたたび聖化する努力をした。これはとくに図像学的な面においてであったが,同時にまたこの時代の美術は明暗の技法による神秘的効果を利用し,劇的な表現によって,新しく宗教感情の高揚をねらっている。いわゆるバロック美術である。しかし,ともかく16世紀以後の近代キリスト教美術における宗教感情の弱まりは否みがたく,それがそのまま19世紀にいたって,芸術性を完全に喪失したまま大量生産される,いわゆる〈サン・シュルピスの美術〉へと堕してしまったのである。これに対し,20世紀に入ってふたたび宗教美術への反省がなされ,一流美術家の協力によって熱心な〈聖なる美術〉の運動が行われており,キリスト教美術はここに新しい段階に入りつつある。ヨーロッパ以外の新しい布教地では,西欧の模倣が多いが,近年は民族固有の芸術感情と結びついた新しいキリスト教美術の創造への努力が行われているところもある。
宗教美術
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「キリスト教美術」の意味・わかりやすい解説

キリスト教美術
きりすときょうびじゅつ

キリスト教に関する美術全般をさす。単にキリスト教徒の信仰の中心たる教会堂建築およびその壁画、ないしは典礼上の用具だけではなく、信徒の私的な信仰生活にかかわるものまで広範囲にわたる。形式上の分類に従えば、まず建築では、集会所(エクレシア)としての教会堂以外にも、礼拝堂、洗礼堂、廟堂(びょうどう)、修道院建築などが含まれる。絵画も、建築に付随したモザイク画、フレスコ画ステンドグラスといった壁画以外に、聖書や典礼書などの写本挿絵(ミニアチュール)、奉納画たる祭壇画などがある。内容的には、『旧約聖書』『新約聖書』、聖者伝に題材をとったものだけでなく、個人的な信仰表現としてのものも、キリスト教美術といえる。建築、絵画以外にも、彫刻、工芸など美術全般にわたって、キリスト教徒が神の栄光をたたえるために表したものが、キリスト教美術といえるであろう。とくにヨーロッパの美術においては、今日に至るまで、もっとも重要な主題であった。

[名取四郎]

キリスト教美術の誕生

ユダヤ教は厳しく偶像崇拝を禁じ、画像表現に反対した。ユダヤ教を母体とするキリスト教も、その本質においては、「神は霊なれば、拝するものも霊とまこととをもって拝すべきなり」(「ヨハネ福音書」4章24節)のことばにみるように、不可視な神の存在を、偶像崇拝に陥りやすい感覚的で可視的な画像で表現することに否定的であるのはいうまでもない。2~4世紀の初代教会の教父たちのことばには、こうした画像表現についての否定的見解が認められる。しかし、ローマに数多く残るカタコンベ(地下墓所)のフレスコ壁画や石棺浮彫りなどにみられるように、4世紀初頭のキリスト教の勝利(313、ミラノ勅令)以前にも、すでに2世紀末ごろからキリスト教美術は存在した。キリスト教以上に厳しく偶像崇拝を禁じたユダヤ教でも、実際には、2~3世紀のドゥラ・エウロポスのシナゴーグの壁画が示しているように、画像表現はあった。キリスト教美術も古代末期のローマ美術の枠内で、一つの宗教美術として誕生したのである。しかし、物質的な色彩で描かれたものへの信仰の移ろいやすさを自覚し、石材や木材で彫られた聖像を偶像崇拝の危険があると禁じた当時の神学者たちの見解にみるように、キリスト教美術がキリスト教の教義に反して生まれてしまったことへの反省は、歴史を通じてたびたび現れる。

 東ヨーロッパの中世美術であるビザンティン美術が経験した聖像破壊運動(イコノクラスム)は、726年から843年の間ビザンティン帝国を揺るがした宗教的、政治的大事件であったが、本来不可視であるべき神の存在を美術という手段で表現することの可否をめぐる論争であった。最終的には画像擁護論者が勝利を収めたが、西ヨーロッパ中世においても同様な現象は、12世紀の聖ベルナルドゥスの神学を実践したシトー会修道院建築に認められる。そこではいっさいの画像表現を避け、植物文様が唯一の許された装飾であった。同時代のクリュニー派などの壮大なロマネスク美術の図像体系と比較して、きわめて対照的な美の世界がそこにはある。しかし他方では、初代教会の教父たちの著作や、4世紀ないし5世紀の宗教会議の決議事項には、美術を積極的に利用しようとする見解も含まれている。殉教者をたたえるためにその功績を絵画によって表し、教会堂の壁画として描かれた『旧約聖書』や『新約聖書』の物語は、たとえば読み書きのできない信徒の教化に役だつなどの考えであった。迫害時代には私宅教会やカタコンベ内の集会所や墓所の壁画、さらには死者を弔う石棺の浮彫り装飾などにみるように、3世紀から4世紀へと至る時代に、キリスト教美術はしだいに図像体系を整えてゆく。しかし、なんといっても大きな飛躍を遂げたのは、313年のキリスト教の勝利以降のことで、パレスチナおよびローマを中心に、地中海沿岸や黒海沿岸、さらには小アジアや中近東の内陸部に至るまで、次々に教会堂が建造されていった。ここに至って壁画も、一般教会堂、殉教者記念会堂、洗礼堂、廟堂などの建築の使用目的に応じて、その図像体系が整理され、確立されてゆく。

[名取四郎]

中世キリスト教美術

こうした誕生期のキリスト教美術は、おのずと古代末期のローマ美術の影響を多大に受けていた。たとえば、当時のローマ美術の葬礼美術に一般的な死者の魂を慰める羊の群れを従えた羊飼いを「善(よ)き牧者」たるキリスト像表現として用いたり、動物たちの間で竪琴(たてごと)を奏でるオルフェウスがキリストを表すことになったり、ローマ美術中の象徴的な表現形式がそのままキリスト教美術へ転用された例も多い。また立像ないしは座像のキリストを使徒たちの中心に配した栄光のキリスト表現も、ローマ帝国の皇帝崇拝の形式を借りて生まれたものであった。様式的にみても中世キリスト教美術の一つの特質となる超絶的、精神主義的な性格は、3世紀から4世紀におけるローマ美術そのものの変質の枠内で培われたものとさえいえる。

 キリスト教美術の第一の目的は、なにはさておき神の栄光を賛美することにあり、それは殉教者崇拝や聖者崇拝へとつながってゆく。教会堂東端の内陣部アプシス壁面には栄光のキリストが描かれ、堂内南北の側壁面には、第二の重要な目的と思われる信徒の教化のために、『旧約聖書』物語や『新約聖書』のキリストの生涯の諸場面、さらには聖者伝などが描かれるのが原則となってゆく。モザイク技法やフレスコ技法の壁画以外にも、聖書や典礼書の写本に施された挿絵、ビザンティン美術に特有の聖なる板絵イコンなどがある。大規模な彫刻がふたたび復活するのは11~12世紀以降のことである。工芸においては、金や銀に打出し技法を施した典礼用の諸器具、聖遺物箱などにみる象牙(ぞうげ)浮彫りなどがある。ゴシック美術時代に至ってステンドグラスの技法が栄えるなど、キリスト教美術は時代によって、地域によって、そしてその使用目的に応じて、多彩な展開を示してゆくことになる。6世紀以降、東ヨーロッパのビザンティン美術は首都コンスタンティノポリス(現イスタンブール)を中心に独自の展開を示し、1453年の帝国滅亡の日まで、西ヨーロッパの中世美術とは質を異にするキリスト教美術を発展させた。6世紀のユスティニアヌス皇帝時代に実現された第一期の黄金時代ののち、とくに聖像破壊運動の終結後、9世紀から13世紀に至る中期には、教会建築および壁画の図像体系の確立、そしてイコンの隆盛などがあり、今日もギリシア正教圏内の国々にはみごとな遺例が残されている。

 西ヨーロッパでは民族移動の混乱期にも、ローマを中心に古代美術から中世美術へとキリスト教美術は着実にその歩みを進めていった。しかし西ヨーロッパの真の中世美術の幕開きは、9世紀のカロリング朝時代を経たのち、11~12世紀のロマネスク美術における大聖堂時代の始まりにあるといえる。古代末期以来、神学上の理由から避けられていた大彫刻が復活し、とくに教会の正面入口の外壁面には「最後の審判」を基調とした荘厳なるキリスト像が彫られるようになる。さらに内部の柱頭彫刻などでも、単にキリスト教の主題のみならず、1年の暦や労働の暦日、日常生活の情景に根ざした善徳と悪徳のアレゴリーなど、きわめて教育的役割をもった装飾体系が確立された。フレスコ壁画をも含めて、ロマネスク時代の教会は貧しい人々の聖書ともみなされ、石の百科全書ともよばれることになる。この伝統は12世紀後半から現れる次のゴシック美術でさらに発展する。しかし様式的には両者は非常に異なる。ロマネスク美術が神秘的で抽象的な性格をもっていたのに反し、ゴシック美術には写実的で人間感情の直接的表現が顕著となっている。都市の市民生活が活発となり、その活動の直接の反映がゴシック美術にはすでに認められるわけで、外壁面が隅々まで彫刻で飾られ、窓という窓には全面にステンドグラスがはめ込まれたゴシックの大聖堂(カテドラル)は、まさに市民生活の中心的位置を占めることになったのである。

[名取四郎]

ルネサンス以降

しかしこうしたキリスト教美術の時代は14世紀で終わりを告げ、ルネサンス美術の時代に入ると、主流は世俗美術に傾いてゆく。中世美術にみたような大きな時代様式としてのキリスト教美術の時代は終わり、美術が宗教からしだいに独立してゆく過程で、キリスト教美術も個々の画家の作業に任されることになる。もちろんルネサンス時代にも教会堂壁画や祭壇画など数多くのキリスト教美術は生まれたが、中世にあったような宗教感情、道徳、さらには生活の面における民衆に対する指導的立場をすでに失ってしまった。16世紀の宗教改革の時代にキリスト教美術はふたたび大きな試練の場にたたされる。プロテスタント教会は従来の美術に偶像崇拝の危険を認め、とくにカルバン派が行った大聖堂の彫刻破壊運動は北部フランスを中心に猛威を振るい、その痕跡(こんせき)はいまもなお生々しく残っている。ローマ・カトリック教会側は宗教改革に対抗し、さらにルネサンス文化の異教主義に対抗して、16世紀後半にトリエント公会議を開いて立て直しを図り、キリスト教美術もここで近代美術にふさわしい基礎を築くことになる。バロック美術の壮大な教会建築と壁画によって、キリスト教美術はいったん再興したかにみえたが、それもしだいに形骸(けいがい)化し、17世紀のエル・グレコやレンブラントなどの幾人かの画家の業績を別にすれば、19世紀まで教会美術は衰退の道をたどったといえる。

 20世紀になってやっとルオーの作品群をはじめ、ランスの大聖堂にあるシャガールのステンドグラスや、南フランスの一礼拝堂のマチスの壁画、ランス郊外の礼拝堂にあるレオナルド藤田(嗣治(つぐじ))の壁画など、真の新しいキリスト教美術が芽生えつつある。

[名取四郎]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「キリスト教美術」の意味・わかりやすい解説

キリスト教美術
キリストきょうびじゅつ
Christian art

キリスト教信仰にかかわる美術。キリスト教の布教されはじめた1世紀から数世紀の間の美術は初期キリスト教美術と呼ばれる。4世紀のコンスタンチヌス大帝によるキリスト教の公認とローマ帝国衰滅以後ルネサンスまでの中世美術は,キリスト教を中心に展開。それらは東方 (ビザンチン帝国) におけるビザンチン美術と,西欧のロマネスク美術ゴシック美術とに大別される。ルネサンス時代となっても美術の中心主題は依然としてキリスト教に関するもので,この傾向はマニエリスム美術,バロック美術まで続く。 18世紀後半にいたってヨーロッパ美術はようやくキリスト教的主題から解放されるが,19世紀のロマン主義美術の展開とともに再び取上げられ,ドイツのナザレ派や 19世紀後半のイギリスのラファエル前派などの美術では特に顕著。 20世紀では,フランスの G.ルオー,イギリスの彫刻家 J.エプスタインなど,現代画家ではイギリスの G.サザーランド,フランスの A.マネシエなどの作品が有名。また聖堂建築においては現代にいたるまでの数多くの傑作がある。ヨーロッパ以外のキリスト教美術として重要なのは,エジプトのコプト美術,ラテンアメリカのいわゆるコロニアル・アート,中国の景教や日本のキリシタン美術など。

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世界大百科事典(旧版)内のキリスト教美術の言及

【最後の審判】より

…今や〈最後の審判〉は単に恐るべき日ではなく,救いの実現の日となったのである。終末論【川村 輝典】
[〈最後の審判〉の図像]
 キリスト教美術における〈最後の審判〉の図像の起源は,すでに4~5世紀から現れるさまざまの象徴的,寓意的な作例にさかのぼる。まず,世界の終末の恐怖は,《ヨハネの黙示録》4章による獅子・牛・人・鷲の四つの生物および24人の長老たちに取りかこまれ,御座(みくら)に座すきびしい神の姿(ローマ,サン・パオロ・フオリ・レ・ムーラ教会のモザイクなど)に〈最後の日〉の審判者を象徴させ,その後,中世を通じて行われるが,ことにロマネスク時代にその作例は多く,すぐれた大構図を生んでいる(フランス,モアサックの彫刻,12世紀初め)。…

【宗教美術】より

…西洋における近代以後の純粋美術,および東洋における花鳥・風景画などを除いては,先史時代以来ほとんどあらゆる美術が,宗教美術としての性格をもっていたと考えることができる。キリスト教美術象徴図像仏教美術【柳 宗玄】。…

※「キリスト教美術」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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