アフマディネジャド(読み)あふまでぃねじゃど

日本大百科全書(ニッポニカ) 「アフマディネジャド」の意味・わかりやすい解説

アフマディネジャド
あふまでぃねじゃど
Mahmoud Ahmadi Nejad
(1956― )

イランの政治家。2005年6月の大統領選決選投票で、大統領経験のある最高評議会議長ラフサンジャニ圧勝し、8月、大統領に就任。2013年まで二期政権を運営した。「文明間の対話」を訴えた改革派の前大統領ハタミとは対照的に、「故ホメイニ師の革命理念に帰れ」と主張する保守強硬派である。「イスラエルを地図から消し去るべきだ」と発言したり、核兵器製造につながるウラン濃縮を再開するなど、国際社会の悪役を演じており、イランの孤立化に拍車をかけた。

 中部セムナン州ガルムサルの鍛冶(かじ)職人の家に生まれたが、1歳で家族とともにテヘランに移住。科学産業大学卒業後、同大学工学部の講師を務めながら、交通工学で博士号を取得した。1979年のイラン革命後、政教一致のイスラム法学者統治に絶対の忠誠を誓う革命防衛隊入隊。イラン・イラク戦争(1980~1988)に参加したほか、在イランアメリカ大使館人質事件(1979~1981)に関与したとの証言もある。

 政治家としては、地方都市の首長として経験を積み、1993年に北西部アルダビール州の知事に就任。2003年には首都テヘランの市長となった。市長時代は清貧信条として市長報酬を返上、富裕層から徴収した金で低所得者層を救済するなど、「イランのロビン・フッド」とよばれたこともある。しかし、大統領就任後、国威発揚のためウラン濃縮を再開して、欧米諸国から経済制裁を受けた。イラン憲法下では大統領の連続三選が禁じられているため、任期の2013年8月で退任した。

[宮明 敬]

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百科事典マイペディア 「アフマディネジャド」の意味・わかりやすい解説

アフマディネジャド

イランの政治家。ギャルムサール生れ。イラン科学技術大学卒業。革命防衛隊勤務を経て,1993年-1997年アルダビール州知事,2003年テヘラン市長,2005年6月の大統領選挙で穏健・現実派のラフサンジャニ最高評議会議長(元大統領)を破って当選し,2005年8月就任。保守・強硬派で,ウラン濃縮を続けて国連安全保障理事会の制裁決議を受け,米国による金融制裁も受けている。〈イスラエルをヨーロッパに移すべきだ〉,〈ナチス・ドイツによるホロコースト(ユダヤ人大虐殺)はなかった〉との発言に対しては安全保障理事会の非難声明が採択された。2009年6月再選をかけた大統領選挙で穏健派有力候補ムサビと争ったが,選挙結果は事前の予想を覆して大差で圧勝した。この選挙結果に対して穏健改革派は不正選挙と反発を強め大規模デモを組織して抵抗,これに対して武力鎮圧方針で臨むなど,イラン全土に混乱が広がった。アフマディネジャドの政権基盤は必ずしも強固なものではなく,最高指導者ハーメネイー師の支持によって混乱が収束した。10年7月,米国オバマ大統領は,イランの金融・エネルギー部門との取引する企業への制裁を強化する対イラン制裁法案を成立させ,さらに11年末,国防権限法に,原油の輸入代金支払いなどのためにイラン中央銀行と取引をしている銀行などの金融機関を,米国の金融システムから締め出す内容を盛り込み,イランからの原油輸入禁止の国際包囲網の形成に踏み出した。これに対してイランはホルムズ海峡封鎖を示唆して対決姿勢を強めた。アフマディネジャドは封鎖に対しては慎重で,封鎖を主張しているのはさらに保守派のハーメネイー派といわれた。12年3月の国会選挙では保守派が勝利したが,内部ではハーメネイー支持派が圧勝,この時点で大統領の政権運営は困難なものとなっていたとされる。現行イラン憲法では3選を禁じており,アフマディネジャドは任期の13年8月までで退任,6月の大統領選で当選した穏健派のロウハニが就任した。
→関連項目イラン

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「アフマディネジャド」の意味・わかりやすい解説

アフマディネジャド
Afmadinejad, Mahmoud

[生]1956.10.28. ギャルムサール
イランの政治家。大統領(在任 2005~13)。鍛冶職人の子として生まれ,テヘランで育つ。1976年イラン科学技術大学 IUSTに入学し,土木工学を専攻。1978~79年のイラン革命に際しては,学生指導者の一人としてデモ隊を組織した。革命後,仲間の多くと同様に,アヤトラ・ルホラ・ホメイニが組織したイスラム系軍事組織である革命防衛隊に入隊。1980~88年のイラン=イラク戦争の間は革命防衛隊の活動と並行して IUSTでの勉学も続け,運輸工学・設計で博士号を取得した。2003年テヘラン市長に選出。2005年大統領選挙に立候補し,おおかたの予想に反して当選した。外交問題にきわめて積極的で,アメリカ合衆国やヨーロッパ連合 EUをはじめとする国際社会からの批判に抗して,イランの核開発計画を擁護した。国内政治では,その経済政策がイラン社会の二極化を拡大する要因となった。低金利の融資やインフラストラクチャーなどのプロジェクトへの巨額の財政支出,そして民衆の支持を強化するための燃料,食料品など主要品目への補助金といった一連の政策が、高インフレ率の一因となった。2009年の大統領選挙が近づくにつれ,アフマディネジャドの経済政策と対外強硬路線が大きな批判を浴びる可能性があるとの見方もあった。なかでも最大の敵は穏健派の対立候補,ミール・ホセイン・ムサビ元首相で,ムサビ陣営には国内の穏健派が結集していた。選挙前の世論調査では激戦が予想された。しかし選挙の結果,監督者評議会(上院)はアフマディネジャドの勝利を宣言し,同 2009年8月初めに 2期目の大統領に就任した。2013年,任期満了にて退任。

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