黒木城跡(読み)くろきじようあと

日本歴史地名大系 「黒木城跡」の解説

黒木城跡
くろきじようあと

[現在地名]相馬市黒木 西館・中樋・持添

国道一一三号沿いの黒木集落の西にある平城に近い平山城跡。御門みかど川と水無みずなし川に南北を挟まれた舌状丘陵が段丘化した先端に築城された。南朝方の北畠顕家に属した黒木大膳亮正光が建武年間(一三三四―三八)に築造したといわれ、結城宗広の一族中村六郎広重が守る熊野堂くまのどう城とともに、霊山りようぜん城の搦手として南朝方の宇多うだ郡北部支配の拠点であった。建武五年七月日の伊賀盛光軍忠状(飯野八幡宮文書)に「霊山搦手宇多庄黒木城」とみえ、同年六月二四日に北朝方の相馬親胤らが当城攻撃のため発向しているが、同三年三月一三日の宇多庄における黒木入道一党らの挙兵が、海道方面(浜通り)での南北両朝の緒戦であった(同年三月日「相馬長胤軍忠状」相馬岡田雑文書など)。暦応元年(一三三八)一一月一七日には、当城と霊山城を攻めるための軍勢催促が相馬胤家に対して行われている(「石塔義房軍勢催促状」相馬岡田文書)。興国元年(一三四〇)北畠顕信の奥州下向に際し、北畠親房海路・陸路の警備を黒木城中の者に命じており(同年五月一六日「北畠親房書状写」松平結城文書)、翌年三月二四日には北畠顕信が「中村・黒木等」への加勢を下知するように白川修理権大夫に命じている(「北畠顕信御教書」伊勢結城文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報