黒川郷(読み)くろかわごう

日本歴史地名大系 「黒川郷」の解説

黒川郷
くろかわごう

嘉暦四年(一三二九)の鎌倉幕府下知状案(守矢文書)に「黒河」として現れる。その後、南北朝時代・室町時代をどのように推移したか、その伝領関係は明らかでないが、同下知状案には黒河郷等が豊後左京進入道(島津宗久)の跡とあり、島津氏の支配地でやがて領地化されたものと推測される。永正一六年(一五一九)平出ひらいで願生がんしよう寺の八世祐賢は実如上人から本尊裏書をしてもらったが、それには「信州水内郡太田庄黒河郷平出村願生寺」とみえる(上水内郡誌)

天正一〇年(一五八二)北信濃地方を手にした上杉景勝は、島津忠直長沼ながぬま城主に任ずるとともにこれに所領を宛行っているが(「地行方之覚」覚上公御代御書集)、その中に「千貫文 同領黒川郷」がある。

黒川郷
くろかわごう

中・近世勢多郡の最東部、渡良瀬川上流の地域(現黒保根村・東村)を黒川郷または黒川山中・黒川谷といった。天正二年(一五七四)九月一四日の足利義氏書状(集古文書)に「去五日、黒川谷寄居二ケ所打散」、年未詳九月一一日の上杉輝虎(謙信)書状(栗林文書)に「若黒川打入、凶徒退散候者」などとみえる。腰塚家系図(腰塚家蔵)には「当山中、黒川ト号儀ハ奥州黒川郡ヲ引、奥州之落人多分成ハ故郷ヲ思名附ルト言伝也」とある。

黒川郷
くろかわごう

和名抄」東急本・高山寺本ともに訓を欠く。同書の陸奥国黒川郡には「久呂加波」との訓が付されているので、同様に訓じておく。当郷は「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条に載せる「黒川駅」の所在地である。当郷あるいは黒川駅について、「下野国誌」は黒川流域に求め、「大日本地名辞書」「大日本史」は現那須町黒川付近に想定している。しかし白河しらかわ関跡が福島県白河市旗宿はたじゆくに存在するところから、東山道は三蔵さんぞう川河谷を通っていたと考えられ、したがって上記説は否定される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報