高祖村(読み)こうそむら

日本歴史地名大系 「高祖村」の解説

高祖村
こうそむら

[現在地名]沖美町高祖・美能みのう

西能美にしのうみ島北端西部にあり、東は三吉みよし村、南は是長これなが村に接し、北と西は瀬戸内海に面する。大部分山地が占め、沿岸北部東の高祖と西の美能(箕尾)の地に開けた小平地に集落が展開する。美能の地は北西の岸根鼻がんねばな(加牟禰鼻)で小湾を形成し、奈佐美なさび瀬戸(がんね瀬戸)を隔てて大奈佐美おおなさび(大渚干島・大那沙美島)と小奈佐美島(絵の島)を望む。弘治元年(一五五五)四月二一日付の毛利元就同隆元連署書状(「閥閲録」所収大多和惣兵衛家文書)に「こうそう」とみえる。

高祖村
たかすむら

[現在地名]前原市高祖

大門だいもん村の南、高祖山(四一六・一メートル)西麓に位置する。西は三雲みくも村、南は末永すえなが村。東は日向ひなた峠を越えて早良さわら金武かなたけ(現福岡市西区)に至る。「和名抄」所載の怡土いと託杜たこそ郷の遺称地とする説がある。中世は高祖郷が成立。古くは五郎丸ごろうまる村とも称したという(続風土記拾遺)。小早川時代の指出前之帳では三雲村高上たかうえ村、宇田川原うだがわら(現西区)も含み、田一四一町三反余(分米一千七二八石余)・畠四六町九反余(分大豆一七二石余)。慶長七年(一六〇二)の検地高一千四三一石余、うち大豆一四〇石余(慶長石高帳)。福岡藩領。元禄五年(一六九二)の高一千四七四石余、うち畠一四六石余、反別九五町八反余、家数五三・人数四三九、社一・寺二(田圃志)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報