高梨村(読み)たかなしむら

日本歴史地名大系 「高梨村」の解説

高梨村
たかなしむら

[現在地名]仙北町高梨

丸子まるこ川の下流左岸、川口かわぐち川との合流点の南に位置し、北は戸地谷とちや村、東は上野田こうずけだ村、南は橋本はしもと村、西は戸蒔とまき村(現大曲おおまがり市)に接する。

貞治五年(一三六六)一一月二七日の秋季への譲状(新渡戸文書)に「一大石郷・立株郷・高梨子郷士□□」とみえ、南北朝期は和田氏の所領であったとされるが、委細は明らかでない。その後本堂氏が台頭し、天正一八年(一五九〇)には豊臣秀吉の安堵を得ている。本堂家系譜(小野寺盛衰記)に「高梨村」とあり、高は田一千一六二石三斗三升六合、畑一五九石三斗九升五合、合計一千三二一石七斗三升一合であった。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に一千三七六石とある。藩の重臣戸村十太夫の新開地が一九八石余あったといわれ、払田ほつた村で丸子川から水を揚げ当村に流れるした(十太夫堰)によって開墾されたものと思われる(高梨村郷土沿革紀)

高梨村
たかなしむら

[現在地名]須坂市高梨 高梨町

現須坂市西部中央。千曲川右岸沖積部。東は小山こやま村、北は五閑ごかん村、西は村山むらやま村、西南は中島なかじま村、東南隅は九反田くたんだ村と接す。東南隅付近は百々どど川・あい川の合流点。以下百々川は北西流、更に北折して村西部を流れる。口碑には川の屈折点は漸時西遷したという。百々川氾濫の際の最大被災地帯である。近代に入り、鮎川合流点以下を直ちに千曲川に放流を企画。大正一一年(一九二二)完成、新百々しんどど川と称した(須坂市人物誌)。集落は東北部字なしにある。

村名に関係のある高梨氏は清和源氏頼季流と称する井上氏の一流とされ、「上高井歴史」は、井上満実が康平七年(一〇六四)前九年の役から帰郷、四子盛水を高梨にとどめ築城したとしている。高梨氏は、古代北陸道経営の祖とされている大彦命の後裔で信濃に入り、小布施(現上高井郡小布施町)に定着した小布勢氏が祖先の経営のあとをつぎ、羽後高梨村(現秋田県仙北郡仙北町)にあった高梨柵(現在の払田ほつた柵跡)を攻略したことから、姓を高梨氏に改めたとする説が有力である。

高梨村
たかなしむら

[現在地名]丸子町大字西内にしうち

内村うちむら渓谷のうち最も奥にある村。東は平井村、西は三才山みさやま峠を隔てて筑摩ちくま入山辺いりやまべ(現松本市)などの村々、南は山嶺を隔て武石たけし(現武石村)、北はうめ峠・いち峠・大明神だいみようじん岳等を隔てて野倉のぐら(現上田市)沓掛くつかけ(現青木村)と境をなす。村を東西に松本へ通ずる三才山越の古道(現国道二五四号)沿いに、高梨・まちの集落、鹿教湯かけゆ温泉・大塩おおしお温泉が点在する。町より北に進む古道は青木村で東山道と合流し、保福寺ほうふくじ峠を越え松本に通じている。

高梨村
たかなしむら

[現在地名]福島市沖高おきだか

下飯坂しもいいざか村の南、鎌田かまた村の西に位置し、八反田はつたんだ川左岸の下位洪積段丘上に立地する。高梨子とも記された。天文七年(一五三八)の段銭古帳に信夫北しのぶきた郷のうちとして「上下たかなし」とみえ、段銭は三貫三〇〇文。古高新高帳によれば、米沢藩領時代の古高五七三石余、幕府検地による新高五〇三石余。領主の変遷は丸子まりこ村と同じ。入会山は上飯坂・茂庭もにわ両村の奥山で、寛保三年(一七四三)の上飯坂村明細帳(福島市史)によれば、当村を含む五ヵ村が上飯坂口と称される奥山で薪木取を許されていた。

高梨村
たかなしむら

[現在地名]南陽市高梨

吉野よしの川扇状地扇端部に位置する。くりや川跡には最近まで多くの堤がほぼ南北に並んでいたが、現在はまる堤・古峯こばはら堤・沖田おきた堤が残り、当村は古峯・沖田両堤の中間、郡山こおりやま村と小松こまつ(現東置賜郡川西町)を結ぶ新道に沿う。下高梨に小字なしがあり、昔梨の喬木があったので村名になったという(沖郷村史)。建武四年(一三三七)一月一八日の沙弥某奉書写(秋田藩家蔵文書)に「池上藤内左衛門尉泰光申、亡父真雄遺領(中略)出羽国北条庄下高梨子村田中田在家地頭職安堵之事」とあり、相模国を本貫とする池上泰光が地頭として当村を領していたと思われる。

高梨村
たかなしむら

[現在地名]小千谷市高梨町

三島さんとう郡の最南部に位置する。長岡道(現国道三五一号)に沿って高梨・五辺ごへんの二集落よりなる。信濃川左岸にあり、水害の多い地域であった。文明年間(一四六九―八七)の長尾・飯沼氏等知行検地帳(上杉家文書)に「長尾豊前守分山東郡ノ内」として、同一六年に「一、本田増分共 合伍万千八百苅 高梨南村并山屋村両所」がみえる。大永七年(一五二七)一〇月一九日の長尾房景領分段銭日記(反町英作氏所蔵文書)には「一町三段 高梨四ケ所」とみえ、古志長尾氏の所領であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報