高松郷(読み)たかまつごう

日本歴史地名大系 「高松郷」の解説

高松郷
たかまつごう

江戸期の高松村一帯に比定される中世の郷名。永和三年(一三七七)一二月一一日の官宣旨(円覚寺文書)に、鎌倉円覚寺領として瀬名せな春吉・鎌田かまた春吉とともに「高松春吉」がみえる。現相良さがら般若はんにや寺所蔵の大般若経巻一七八・巻一九八の奥書によると、永正三年(一五〇六)四月に「高松郷」の塩沢久吉が旦那として経巻を修復している。天文一八年(一五四九)八月一一日の駿府浅間社社役目録(村岡大夫文書)および永禄元年(一五五八)八月一三日の今川氏真朱印状(静岡浅間神社文書)からは、当郷が浅間社(静岡浅間神社)の五月流鏑馬郷役二貫一〇〇文を負担したことがわかり、注記に「寺方二年、三年目千念寺方、四年目弐部方也」とあるが詳細は不明。

高松郷
たかまつごう

和名抄」東急本は「多加都」、刊本は「多加万都」と訓を付す。近世古高松ふるたかまつ村は、天正一六年(一五八八)生駒親正野原のはら郷に城を築き高松と称するまで高松とよばれた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報