高幡村(読み)たかはたむら

日本歴史地名大系 「高幡村」の解説

高幡村
たかはたむら

[現在地名]日野市高幡など

三沢みさわ村の北、新井あらい村の西にあり、村の北側をあさ川が流れる。中世高幡郷の遺称地。田園簿に高畑村とみえ、田方九〇石余・畑方三三石余、幕府領。ほかに金剛こんごう(現真言宗智山派)領三〇石。寛文七年(一六六七)の高幡村検地(平家文書)によれば田方一一町余・畑方三町四反余・屋敷五反余。元禄郷帳では高一六七石余。幕府領であったが、慶安年間(一六四八―五二)には金剛寺領と相給になり、さらに元禄一〇年(一六九七)松平領となった(「寛政重修諸家譜」など)。「風土記稿」によると水田が七割を占め、残りが畑と山林で、家数三〇。旗本松平領。旧高旧領取調帳によれば松平領一三七石余・幕府領二五石余・金剛寺領三〇石。

高幡村
たかはたむら

[現在地名]岩瀬町高幡

筑輪ちくわ川右岸、岩瀬盆地の南東部に位置し、江戸時代は笠間藩領で、「寛文朱印留」に村名が載る。「郡官日省録」(武藤家文書)によると慶安三年(一六五〇)の検地で村高二一九・九五三石となり、万治三年(一六六〇)と延宝五年(一六七七)の新開検地で合せて八斗余を打出す。「茨城郡村々様子大概」(笠間稲荷神社蔵)によれば、村には村山一、四壁山七、堰三があり、助郷結城街道羽黒はぐろ宿へ課せられた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報