高倉範子(読み)たかくらはんし

改訂新版 世界大百科事典 「高倉範子」の意味・わかりやすい解説

高倉範子 (たかくらはんし)
生没年:?-1200(正治2)

父範兼の官職にちなんで刑部卿三位と称した。卿二位兼子(卿局きようのつぼね))の姉。はじめ平時子と同腹の能円(のうえん)に嫁し,在子(のちの承明門院)をもうける。1180年(治承4)後鳥羽天皇が誕生するや妹とともに乳母に上がったが,夫や平氏一門の西走に同行せず,やがて在子を伴って源通親に再嫁した。これが通親の権勢伸長に益するところ多大だったが,北条政子にも対比される妹の辣腕ぶりにくらべて範子自身は温順性質であったらしく,格別の政治的活動は知られていない。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の高倉範子の言及

【源通親】より

…はじめ花山院忠雅の娘を妻としたが,仁安・嘉応(1166‐71)ころ平教盛の娘をめとり,全盛期の平氏の後援をたのんで政界に進出。また高倉天皇の近臣として重きをなしたが,平氏の西走(1183)後は後鳥羽天皇の乳母高倉範子を室に迎えるなどして政治的立場の更新をはかり,後白河法皇近臣の列に加わった。才幹人にすぐれ,1185年(文治1)源頼朝の申請により議奏公卿に選任,建久初年には頼朝の長女大姫の入内(じゆだい)工作を依頼されるなど,関東の信任をも得た。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」