馬木村(読み)まきむら

日本歴史地名大系 「馬木村」の解説

馬木村
まきむら

[現在地名]出雲市馬木町・馬木北町まききたまち

神戸かんど川が中流で曲流する左岸内側にあり、対岸にも小地区を有する。東は上塩冶かみえんや村、西は上古志かみごし村、南は上朝山かみあさやま村。建長元年(一二四九)六月日の杵築大社造宮所注進状(北島家文書)に流鏑馬一五番の五番として「平田保、合出雲郷、馬来郷、竹矢郷勤仕同前」とみえる。正保国絵図に村名がみえる。慶安四年(一六五一)検地帳では田方一一町八反余・分米一四一石余、畑方一九町七反余・分米一〇〇石余、屋敷数二二(うち役屋敷一五)とある。元禄十年出雲国郷帳では高三五六石余、寛文四年(一六六四)の本田高三一七石余・新田高一〇石余。「雲陽大数録」では高三〇〇石。宝暦四年(一七五四)の神門郡南方万指出帳(比布智神社文書)では東西一七町・南北一五町、田二町九反・畑九町、家数八五・人数四〇〇、牛三七・馬八、大工一・木挽三・綿打一・桶屋一、威鉄砲一、渡船一と記す。

馬木村
うまきむら

[現在地名]東区安芸あき町馬木

温品ぬくしな村の東北にあり、高宮たかみや郡南端にあたる。広島城下から東北約八キロ。古代に安芸国府があった安芸郡府中ふちゆう(現府中町)へはさらに近い。「芸藩通志」は村名の由来を「按に、馬木は本馬牧なるべし、古、国府に近ければ此村を牧地とせられしか」とする。東から西南へ温品川が流れ、東北に接する福田ふくだ村から当村に入る深川ふかわ―温品往還はこの川に沿って下り、南西の境で温品村に抜ける。

明応(一四九二―一五〇一)頃と思われる一〇月二八日付武田元信書状(熊谷家文書)によると、元信は反逆した温科大蔵少輔の所領であった馬木村を熊谷膳直に与えている。

馬木村
うまきむら

[現在地名]松山市馬木町・内宮うちみや

松山市域の北平坦部にある農村。はるか西方に太山寺たいさんじ山塊があり、東は大内平田おおちひらた村、西は和気浜わけはま村、南は高木たかぎ村、北は堀江ほりえ村に接する。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)和気郡の項に「馬木村」とある。

古代には、和気郡大内おおうち(和名抄)に属したと推定される。中世には、河野氏の家臣の大内氏の支配下にあったと思われる。近世に入り、加藤嘉明・蒲生忠知の治世を経て、寛永一二年(一六三五)以降松平氏による松山藩領となった。

馬木村
うまきむら

[現在地名]東広島市西条さいじよう町馬木

大沢おおさわ村の南、黒瀬くろせ川が西条盆地を抜け、黒瀬盆地に入ろうとする所に位置する。黒瀬川は村北部の竜王りゆうおう山西側の狭い谷を南下し、同山の東麓を流れる松板まついた(長野川)を村中央で合わせてから、西に大きく湾曲し、一帯に平地を形成する。「芸藩通志」によれば、黒瀬郷に属したという。

近世を通じて村高は二〇四・八一二石(元和五年「安芸国知行帳」、明治三年「郷村高帳」広島大学蔵)

馬木村
むまきむら

[現在地名]中村市ふじ まき

猪野々いのの村の北に位置し、うしろ川と内川うちかわ川の合流地点のすぐ下流、後川右岸にある。藤村の枝郷。「むまき」の訓は享和三年(一八〇三)の仮名付帳による。天正一八年(一五九〇)の七夕村藤之村猪野村馬木村地検帳によると、馬木村の検地面積三町四反余、屋敷数二(居屋敷)。江戸時代は元禄郷帳によると本田高三四石余だが、当時すでに集落のない潰村であったようで(中村市史)、寛保郷帳には家数・人数とも零とある。

馬木村
うまぎむら

[現在地名]宇和町清沢きよさわ

宇和盆地の中央部に位置して、宇和川に沿う村。東は坂戸さかど村、西は清沢村に接する。宇和島藩領。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)宇和郡の項に「馬木村 村之中ニて山なし、川有」と記される。

馬木村
ばきむら

[現在地名]明智町東方ひがしかた 馬木

落倉おちくら村の南方にある山中の小村。慶長郷帳に「はき村」とあり、高三〇石余。正保郷帳では田方二五石余・畑方五石余。嘉永三年(一八五〇)の土地所持状況をみると、一石以下五八・八パーセント、一石から五石二八・八パーセント(明智町誌)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報