雑喉場魚市場(読み)ざこばうおいちば

日本歴史地名大系 「雑喉場魚市場」の解説

雑喉場魚市場
ざこばうおいちば

[現在地名]西区江戸堀三丁目・京町堀三丁目

江戸時代の雑喉場町の百間堀ひやつけんぼり川に面した地域にあり、堂島どうじま米市場・天満てんま青物市場(現北区)とともに大坂三大市場と称せられ、大坂市中で消費される生魚取引の独占権を有し繁栄した。豊臣政権期には魚商人は生魚・塩干魚の区別なく天満鳴尾なるお(現北区)付近に集まっていたが、のち北船場きたせんばに移って天満町・うつぼ(現東区)を開発した。江戸時代になると生魚商人が分離し、元和四年(一六一八)上魚屋かみうおや(現同上)に移住して「魚の店」とよばれたが、延宝七年(一六七九)にはさらに雑喉場町に移転した。一方、塩干魚商人も新天満しんてんま町・新靭しんうつぼ町・海部堀かいふぼり町のいわゆる靭三町に移転し、京橋きようばし詰の川魚市場(現都島区)とともにこの三ヵ所が魚関係の商人集住地となった(大阪水産物流通史資料)

元和四年に上魚屋町にあった一七軒の生魚商人が十七軒会屋(会屋は問屋の意)と称し、大坂城代内藤信政、大坂町奉行久貝正俊・島田直時に願出て、大坂唯一の生魚市場として特許を得、冥加金として銀九貫目を上納することになったといわれるが(雑喉場魚市場沿革史)、大坂城代・町奉行は同五年から始まったと考えられ、また冥加金の額が明和九年(一七七二)成立の生魚問屋株と同額であることなどを考えると、この段階での特権的な生魚市場の成立は疑わしい。一方、雑喉場町辺りはもと鷺島さぎしまとよばれる海岸で、元和三年から同六年の江戸堀えどぼり川・京町堀きようまちぼり川の開削によって形成された土地であるが、淀川筋の河口に近い立地条件から慶安―承応(一六四八―五五)頃には上魚屋町の生魚問屋が出張所を設け、生魚の腐敗しやすい三月から一〇月(「大阪市史」では四月から八月)まで取引を行い、一一月から二月(同九月から三月)までは沖揚と称して上魚屋町の本店で取引するようになった。鷺島には魚荷を運ぶ仲仕が多く住み、また野田のだ福島ふくしま(現福島区)で漁獲した雑喉類をこの地で売る者が多くなったため、鷺島の名は用いられず雑喉場とよばれるようになったという。

さらに延宝七年には雑喉屋治郎兵衛・神崎屋喜兵衛・松屋三右衛門・松屋庄兵衛・海老屋庄兵衛・伊丹屋長右衛門の六名の生魚問屋が本店を上魚屋町から雑喉場に移し、旧地に残ったのは天満屋又兵衛・尼崎屋市左衛門・金子屋市兵衛・明石屋甚左衛門・永来屋彦左衛門のみ(「大阪市史」では三名)となった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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