阿保村(読み)あおむら

日本歴史地名大系 「阿保村」の解説

阿保村
あおむら

[現在地名]青山町阿保

別府べふ村の西に位置し、村のやや北部を阿保川(木津川)が西流し、それに沿って阿保越参宮道が通り、宿場を形成する。「続日本紀」延暦三年(七八四)一一月二一日条に「息速別皇子、就伊賀国阿保村居焉」とあり、「新撰姓氏録」も「阿保朝臣、垂仁天皇々子息速別命之後也、息速別命幼弱之時、天皇為皇子宮室於伊賀国阿保村以為封邑」と記し、息速別命と阿保村との関係を述べている。村の西部に明治九年(一八七六)息速別命の陵墓と治定された径三五メートルの古墳がある。しかし「三国地志」は、息速別命宮室を福森ふくもり内の石堂いしどうおよび西にしもりにあて、陵墓についてはなんら記していない。古代以来、大和から伊勢へは阿保より奥鹿野おくがの霧生きりうを通ったと推定され、また阿保峠越が平安時代に開通したという。いずれにしても交通の要衝であり、天皇行幸の際の頓宮や斎王の頓宮がここに設けられた。天喜四年(一〇五六)二月二三日付藤原実遠所領譲状案(東南院文書)

<資料は省略されています>

とある。上津阿保こうづあお村の限東の伊勢山は伊勢地いせじ村東方の山、限南の伊勢道は現在の青山峠越道(国道一六五号)より南方少なくとも柏尾かつしよ川に沿ってあったと考えられ、限西の岡は岡田おかだ村東部の丘陵と推定できる。

阿保村
あおむら

[現在地名]松原市阿保一―七丁目・阿保町上田うえだ一―二丁目・まつおか一―三丁目

松原村の北にあり、東阿保ひがしあお村・西阿保村に分れる。地形は平坦で、松原村との境を道幅七尺(田中啓二家文書)長尾街道が東西に通り、西部を道幅九尺(妻屋家文書)の中高野街道が南北に通じる。地名は、平城天皇第二皇子阿保親王が、薬子の変に関係した疑いで大宰権帥に左遷されたがのち許されて帰京し、承和元年(八三四)河内国丹比たじひ田坐たいに広大な別荘を造営したといい、その地が当地であるとの伝えによる。また天平一九年(七四七)東大寺大仏造営のために銭千貫文を寄進した河内国の人阿保連麻呂は(宮内庁書陵部蔵谷森本「続日本紀」九月二日条、金沢文庫本などでは河俣連)、当地の人といわれる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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