関沢村(読み)せきざわむら

日本歴史地名大系 「関沢村」の解説

関沢村
せきざわむら

[現在地名]中条町関沢・水沢みずさわ

櫛形くしがた山脈の西麓にあり、山脈から流れる大沢おおさわ川・いちさわ川・なかさわ川が合流して関沢川となり、村央を流れる。北は飯角いいずみ村、南は上長橋かみながはし村と接する。

建治三年(一二七七)四月二八日の高井道円(時茂)譲状案(中条町役場所蔵文書)奥山おくやま庄内「せきさハ」がみえ、長橋などとともに道円の孫ひこ二郎よしなか(義基)に譲られた。よしなかの系統はのち関沢氏を名乗っている。同日付の三郎よりもち(茂連)宛の道円譲状案(同文書)によれば、よりもち分とよしなか分の所領境の一つは「せきさハといゝつミのあひたのみそ」に置かれていた。昭和三六年(一九六一)関沢と飯角の境の水田中から出土した長さ七七センチと長さ四〇センチの二本の角材は、中世のものと推定され、奥山庄中条と南条みなみじようとの間に打たれた示とする説もある。康永二年(一三四三)一二月二六日足利尊氏は奥山庄内「堰沢条」など五ヵ所を勲功の賞として三浦下野守(法名道祐)に宛行った(「室町将軍家(足利尊氏)下文」三浦和田氏文書)。

関沢村
せきさわむら

[現在地名]飯舘村関沢

南東流する新田にいだ川の流域に位置し、北は草野くさの村。北東の枝郷蘆股あしのまた村から入った奥州西街道は村内を抜け、南西の飯樋いいとい村に至る。堰沢とも記される。明暦二年(一六五六)蘆股村・八木沢やぎさわ村・小宮こみや村・沼平ぬまだいら村を分村(相馬藩政史)。天保郷帳では「古者 関沢村・蘆股村弐ケ村」と注記される。

永仁五年(一二九七)六月七日の関東下知状(相馬文書)によると、相馬重胤が養父胤門から相伝したたか(現原町市)と「堰沢」において、叔父胤氏が作稲を刈取るという事件が発生したが、同日鎌倉幕府は胤氏の押領を止め、重胤に所領を安堵している。

関沢村
せきざわむら

[現在地名]飯山市大字瑞穂

小菅こすげ台地の西麓の村。小菅神社正面にあるため村内に大鳥居がある。千曲川の渡場により大倉崎おおくらざき村と対する。東谷筋道の要地に位置し村内に一里塚を有する。

村名の初出は天文一一年(一五四二)の信濃国高井郡小菅山八所権現元隆寺来由記(小菅神社文書)に「又山麓有七村、所謂小菅・北沢・針田・前坂・関沢・小見・神戸是也、右此七村結界神境、殺生禁断之地也、此地所生男女禁食鳥獣」とあり、結界の地としてみえる。

関沢村
せきざわむら

[現在地名]宇都宮市関堀町せきぼりちよう

北は川原谷かわらや村・岩本いわもと村、南は堀米ほりごめ村に接する純農村。慶長七年(一六〇二)以来の宇都宮大明神領と思われ、慶安郷帳では田方二四八石余・畑方一二一石余。この高には堀米村の高も含まれている。以後近世を通じて同社領。元禄郷帳に高一八三石余とあり、これ以前に堀米村を分出している。享保一三年(一七二八)の宇都宮大明神由緒(「宇都宮御留書」国会図書館蔵)によれば、当村のうち高四四石は社家古嶋主計知行、高一五石は不動院、高一五石は浄心院、高一五石は金照院分である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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