長良村(読み)ながらむら

日本歴史地名大系 「長良村」の解説

長良村
ながらむら

[現在地名]江津市松川町長良まつかわちようながら

那賀郡東部、江川右岸に位置し、東は上津井かんづい村、北はいち村、南は邑智おおち谷住郷たにじゆうごう(現桜江町)大部分は標高二〇〇メートルを超す丘陵地帯が占め、村の北部を東から西へ貫流する上津井川の河谷が主要な水田地帯となる。近世期には市村に置かれた川登かわのぼり口番所の添村として番所の日用経費や修復費用などを負担した(「石見国郡中入用其外取計定書」重富家文書)

長良村
ながらむら

[現在地名]総社市長良

窪木くぼき村の東、長良山の南東に位置し、村の中央をすな川が南流する。長和五年(一〇一六)の大嘗会の際、善滋為政が「吉備国長良の村に住民はみつきそなへむ程そ久しき」と詠んでいる(大嘗会和歌集)。永享元年(一四二九)の備中国惣社宮造営帳写(池上文書)に、石引として「長良百姓石四ツ」とある。寛永備中国絵図では高六六七石余、足守藩領。以後、幕末まで同藩領。延宝三年(一六七五)の万覚帳(小川文書)では高六二五石余、家数六七・人数三五一。正徳四年(一七一四)の備中一国重宝記では高五七八石余。

長良村
ながらむら

[現在地名]中川区長良町・五月さつき通・松葉まつば町・乗越のりこし町・いけ町、中村区角割かくわり

村の南部を佐屋路が通る。「尾張国地名考」によれば、村名は「長浦」に由来するという。寛文一一年(一六七一)の家数一〇五、人数四七二(寛文覚書)。「徇行記」によれば田畑七五町八反余のうち田が四九町余。概高一千三二七石余のうち一千二五一石余が藩士三二人の給知である。

長良村
ながらむら

[現在地名]揖斐川町長良

揖斐川左岸、村の南東にあり、北に権現ごんげん山が東西に横たわっている。集落は岐阜と揖斐を結ぶ街道に沿って東西に長く連なり、東は清水きよみず村に続く。慶長郷帳に「なぐり村」とみえるのは当村と考えられ、高二六五石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では西尾嘉教(揖斐藩)領。正保郷帳では旗本(美濃代官)岡田善政領で、田一三四石余・畑一二八石余・山年貢一石余、ほかに新開一七石があった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報