長田八幡宮跡(読み)ながたはちまんぐうあと

日本歴史地名大系 「長田八幡宮跡」の解説

長田八幡宮跡
ながたはちまんぐうあと

[現在地名]美東町大字長田 宮の河内

宮の河内みやのこうち岡台おかのだいにあった。祭神は応神・仲哀両天皇と神功皇后で、住吉大明神と武内大臣を合祀。旧村社。

「注進案」によれば文治三年(一一八七)宇佐うさ神宮(現大分県宇佐市)より勧請。昭和三九年(一九六四)真名まなの字湯の口ゆのくちにある竜尾たつのお八幡宮に合祀され、真長田まながた八幡宮と改称した。近世には社領一石があった。同書は「八幡宮の馬場、往古の社地に古木一ト株残れり」とし、八幡宮勧請以前は神木とあがめ、長田村の惣鎮守であったとの古老の伝を記す。

現在真長田八幡宮所蔵の神楽(四面)の箱書には「(宝カ)竜集弐林鐘吉祥為長陽美祢郡長田村八幡宮宝物之面四ツ、内文選壱・口宣壱・五郎壱・姫宮壱、願主毛利蔵主大江就直公」とあり、宝永二年(一七〇五)長田村に知行地のあった毛利蔵主が当社に奉納したことがわかる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報